人生を豊かに生きるには、母語が不可欠 - 望月勇

人生を豊かに生きるには、母語が不可欠 (1)


 私が、言葉のグローバルということに気がついたのは、スペインに滞在していたときかもしれません。
昔、20代の頃、スペインのマドリッドに、1年以上滞在したことがありました。まだフランコ将軍(1892~1975)が独裁政治をしていた頃です。その頃は、やたらに警察官が目に付いたのですが、治安はすこぶる良かったのです。引ったくりもないし、タクシーの運転手は正直でぼられることはあり得ませんでした。

フランスからピレネー山脈を越えて、スペインへ入国したときのことを、まだ覚えています。泥臭くて物価がびっくりするくらい安かったのです。ナポレオンが、スペインの国のことを、ピレネーを越えたらアフリカである、と軽蔑して言ったそうですが、何となく分かる気もしました。
 とにかく当時のスペインは、北ヨーロッパから見ると泥臭くて、物価が驚くほど安かったので、私みたいな青年には過ごしやすかったせいもあり、長期滞在してしまったのです。

 私は、マドリッドを中心にして、スペインの各地方を旅して歩きました。そして、アンダルシア地方のコルドバに滞在している間、いろいろな想像をかきたてられました。といいますのは、マドリッド滞在中、スペイン史を研究している日本人と友人になり、彼から東大教授の堀米庸三の本(分厚くて重い本で題名は忘れました)をお借りして読んでいたからでした。

 コルドバは8世紀にイスラム教徒に征服されて、ウマイヤ朝の首都となり、トレドと並んで西方イスラーム文化の中心地として発展し、大図書館が建てられて多くの学者が活躍し、10世紀には世界最大の人口を持つ都市となったということは、本から学んでいました。そして、堀米庸三教授の本によると、当時ヨーロッパの学問はコルドバが中心で、イギリスやフランスなどヨーロッパ各国から学生たちがやってきて、アラビア語を習得し、イスラムの科学やギリシャの哲学を学んだというのです。ちょうど日本の長崎に、最新の科学を勉強しに日本各地から青年たちが集まって、オランダ語を学び、蘭学を研究したように、コルドバはヨーロッパの長崎のような場所であったというのです。

 その当時は、ヨーロッパではアラビア語がグローバルな言語でした。英語やフランス語やドイツ語などは、語彙が少なくて、日常生活するための言語で、知的で複雑なことを論じることができない土着語でした。そのため、ヨーロッパの留学生たちは、アラビア語を学んで、イスラムの科学やギリシャの哲学を吸収したのです。ソクラテスの哲学が、アラビア語に翻訳されていたからです。
 そして、キリスト教のレコンキスタ(再征服)により、15世紀にイスラム勢力がイベリア半島から追われて、ヨーロッパでは直接ギリシャ語からギリシャの哲学を学ぶことが可能になったのです。

 以上のようなことを、堀米教授の本によって知ったのですが、当時はアルハンブラ宮殿や、立派なメスキータ(モスク)が建ち、後にメスキータはキリスト教の教会に改築されましたが、それらのイスラムの素晴らしい文化の名残を見ても、欧州各国の青年が当時アラビア語で科学を学んでいたという事実は、現在のアラブ諸国を思うとなかなかイメージできませんでした。しかし、10世紀、世界最大の都市コルドバでは、アラビア語は立派なグローバルな言語だったのです。

 今思うと、ヨーロッパ各国は、日本とまったく同じだったのです。ヨーロッパの最新科学が長崎の出島にあり、日本人がオランダ語を学んで、ヨーロッパの最先端の科学を吸収したのです。その時、日本人がしたことは、前述の項目で述べた通り、日本語にない語彙を苦労して日本語に翻訳していったのです。そして、日本語という土着語から世界に通用する国語ができていったのです。そのお陰で、日本の科学はすでに明治時代に世界の水準に達していたのです。

 そのようなことを考えていると、今の英語のグローバル化ということで、小中学校でも、大学でも、一般の会社でも、どんどん英語だけになっていくと、日本語が心配になってきます。文科省も英語で授業をする大学には、補助金をだす始末ですから。そのようなときに、『英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる』(施光恒著、集英社新書)を読みました。まさに著者の施光恒氏の危惧していることが、強く同感されました。そして、私が常々思っていた疑問を、見事に払拭してくれました。そこで、この本の中で、大事なポイントを一緒に考えてみたいと思います。

 この本の著者によると、日本は今、「グローバル化史観」「英語化史観」に染まっているというのです。国や制度が大きなまとまりに統合されて、言語もグローバル化されて、世界標準語としての英語が使われ、英語以外の言語が世界標準語になることは考えにくく、世界の英語化が進むのは必然的だととらえるのが、「英語化史観」であるというのです。そして、政府も文科省も経済界も会社も、ただお金儲けのためだけで英語化を進めていて、著者は、本当に「グローバル化、ボーダレス化こそ『「時代の流れ』であり進歩である」という見方は、正しいのだろうか、と疑問を呈します。
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