人生を豊かに生きるには、母語が不可欠 - 望月勇

人生を豊かに生きるには、母語が不可欠 (4)

 またある英国人女性が、日本人の友人から日本語を習っていると言って話してくれるのですが、それを聞いているとその英人女性が、日本の地方にいるおっとりした人に思えてきました。彼女の話す日本語は、「私は、あさ、すんぶんす を読みます」「きのう、おすす を食べました」という会話が続くのです。「すんぶんす」は新聞紙で、「おすす」はお寿司のことだとわかりました。その友人は福島の方だと言っていました。その反対に、英国で英国人と結婚されて、周りに日本人がいないところで何年も過ごしていると、ものを察することがうとくなり、英語のきつい性格になっている女性もいます。

 また、両親は日本人ですので、その娘は純粋の日本人ですが、幼児からロンドンの現地校に通って大学生になっていて、日本語より英語の方が得意になっていましたので、彼女の心は日本人でなくなっていました。もう日本の文化を理解できなくなっていたのです。その娘が大学の夏休みを利用して、日本で茶道を習うことにしたのです。そして、日本から帰ってきた彼女に、お茶のことを聞くと、「あんなものは、年寄りが若者をいじめるためにあるのです。あんなものは一日で止めました」と言って、すごい剣幕で怒っていました。その理由を聞いてみると、最初の日に、お茶碗をお盆に乗せて、先生のところへ持って行くように言われ、部屋へ入るのに障子を開けなければなりません。ところが両手がお盆でふさがっていたので、片足で障子を開けて部屋に入った途端、先生の雷が落ちたのです。彼女は、ロンドンでは両手が使えない場合、片足でドアを閉めたり、冷蔵庫のドアをお尻で閉めたりしているのでしょう。日本文化を知っていれば、絶対にそんなことはしないはずです。

②ものづくり」を支える知的・文化的基盤では、「ナレッジ・マネジメント」(知識経営)という分野を広めた経営学者の野中郁次郎氏が、暗黙知から明示的な知を作り出すプロセスの巧みこそが、日本の製造業の創造性の源泉だと論じていることを紹介しています。また野中氏は、新しく何かを作り出す時は、必ず、新しい「ひらめき」や「カン」「既存のものへの違和感」といった漠然とした感覚(暗黙知)を言語化していくプロセスを求められ、このプロセスを母語以外の言語で円滑に進めることは、ほぼ不可能だといいます。母語である日本語で新製品の開発という高度に知的な作業を行う環境が整っていたからこそ、日本の製造業は発展し得たのだと主張します。

 また創造性を損なう外国語での思考の例として、著者は、韓国やインドを上げています。韓国の新聞「韓国日報」が、自然科学分野での日本人のノーベル賞受賞者の続出する一方で、韓国人の受賞者がいない(韓国人の受賞者は金大中氏の平和賞のみ)のはなぜか、というテーマで次のように論じられたそうです。
 日本では、明治以来、西洋の自然科学概念を日本語に訳してきた。「そのおかげで、日本人にとって世界的水準で思考するということは世界で一番深く思考するということであり、英語で思考するということではなくなった」。他方、韓国では「名門大学であればあるほど、理学部・工学部・医学部の物理・科学・生理学などの基礎分野に英語教材が使われる。内容理解だけでも不足な時間に外国語の負担まで重くなっては、韓国語で学ぶ場合に比べると半分も学べない。(――中略――)教授たちは、基礎科学分野の名著がまともに翻訳されていないからだと言うが、このように原書で教えていては翻訳する意味がなくなる。韓国語なら10冊読めるであろう専攻書籍を、一冊把握することも手に負えないから、基本の面で韓国の大学生たちが日本の大学生たちより遅れるのは当然だ」
 そして、ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英氏も、中国と韓国を訪問した際、なぜアジアで日本だけが次々にと受賞者を輩出しているのかという彼らの問いにぶつかり、母国語で専門書を読むことができる日本の優位性をしみじみ感じたという。そして、英語偏重教育に疑問を投げかけ、「専門分野の力がおろそかになったら元も子もない」と懸念を呈している、と述べています。

 また、高等教育がほぼすべて英語で行われているインドからも同様の報告があると言います。インドでは、日本とまったく逆に、近年、大学教育を英語ではなく、インドの言葉でするべきだという議論が高まっているという。そして、現地の識者の次の声を紹介しています。「このままではインド版アントニオ・ガウディは永遠に生まれない。専門教育が英語でしか提供されない環境では、他人のコピーしか作り出せない」と。
このように、著者は、英語化すれば学問の水準が上がり、創造性や研究開発力が増すというのは幻想にすぎないと言います。そして、大学の授業の英語化は、日本語の専門用語の発達を阻害し、「翻訳」が衰退して日本語の「現地語」化を招くことになると懸念しています。それは、高度な議論を行うための語彙を備えた「国語」である日本語が、「現地語」へと退化することであり、母国での思考こそ、創造性の源泉であると訴えています。

 ③良質な中間層と小さい知的格差では、日本の社会には、知的レベルの高い良質な中間層の存在があり、外国人記者も日本には知識層と庶民層との区別がほとんどなく、一般庶民も知識層と言ってよいほどの知識を有していると述べているという。
これは、私もロンドンにいるのでよく分かります。英国は貴族社会ですから、学者が本を出版すると千部位しか刷らないといいます。それも、わざと難解にして、分かる知識人にだけ読んで欲しいということらしいです。それはフランスも同じらしいです。ところが、日本では、難しい翻訳本がでると、評論家の人たちが、それをさらに分かりやすく書いて出版します。そうして、庶民層の知的レベルが高くなります。最近では、ニュートリノ振動という難しいことも、日本語で説明してくれますので、一般庶民も理解します。これは、凄いことではないでしょうか。これが英語だったら、一部のインテリしか理解できないでしょう。