望月勇プラーナヨーガ気功 エッセイ ヨガの友として共に生きた、かけがえのない日々

ヨガの友として共に生きた、かけがえのない日々 (3)


 2007年頃、大谷さんからメールが届きました。「先生のヨガは、誰にでもできますよね。身体障碍者でも?」 私は、「はい、できます」 と返信したことを思い出しました。

 そして、2011年3月11日、東日本大震災が起こります。大谷さんは、この震災前に、岩手から仙台ヨガに参加されていたと思います。5月に、仙台で行う予定だった合宿もできなくなり、急きょ神戸に変更になりました。

 大震災の時、Cさんは、仙台の長町駅近くの8階建てのマンションのトップフロアに住んでいましたので、大変な体験をしました。午後2時半過ぎ頃、ヨガをやっていると、突然ゴーッツ、という不気味な音がして、棚の本が落ち始めたので怖くなり、すぐに玄関へ行きました。その直後、激しい揺れにみまわれ、ピアノが逆さまに倒れました。そして、次の大揺れで、ピアノがまた元に戻りました。信じられない光景でした。エレベーターを使えないので、歩いて階段を降り、そのあと3日ほど学校の校庭の自家用車の中で、両親と弟の4人で過ごすことになりました。
 Aさんは、地震の怖さを体験してから、もうマンションに住めないと思い、秋保温泉の近くに土地を買い、そこに2階建ての家を建てて住むことを決意しました。ご主人が幸い地震保険に入っていたのと、あとは今のマンションが売れれば何とかめどがつくということが分かりました。ただ、この大震災のあとだけに、ひびの入った高層マンションの部屋を買ってくれる人はいないだろうと思いました。ところが売りに出したら、信じられないことに、相場よりも高い値で即決で買ってくれる人が現れたのです。そして、今は庭付きの家に住み、2階は10人くらいヨガのできるスペースもあります。私は、この事実に、Cさんは守られているなと感じました。

 大震災があった年からしばらく仙台ヨガを休むことにしました。そして、3年後、2014年に、仙台の人々からまたヨガをやって欲しいという要望があり、私はヨガ教室を再開しました。この再開から現在までの3年間は、大谷さんとAさん、Cさんにとって、かけがえのない日々になっていくのです。

 Aさんは、このように話しています。岩手からやってくる「大谷さんはどんどん気さくでフレンドリーな印象に変わって行きました。それまでの大谷さんは、ヨガが終わるとさっと会場を離れて帰ってしまうので、ゆっくりお話しするきっかけは全然なかったのです。確かに近づきがたい存在でした。
「今まで自分だけでやってこれてきたし困っていなかった。がんになっていなかったら、人の弱さや痛みも分からず、自分は一生イヤな人で終わっていたと思うの』 と仲良くなってから大谷さんはおっしゃっていました」

 Aさんは、大谷さんと震災以来初めて再会した時、彼女が直腸がんを手術した直後だと知りました。実は、Aさんも同じ時期に急に体調を崩し、仕事が続けられなくなるという経験をしていました。
「これを境に、大谷さんと私は仙台のヨガの度にお話をするようになりました。大谷さんの病状については、直腸がんの手術後、私たちが仲良くなってしばらく経ってから肝臓に転移したような話しでしたが、私に心配かけまいと、もしかしたら真実を伏せていたのかも知れません」 
 「大谷さんと私は、ヨガのお仲間を超えて病気を通して支え合った仲間だったと思います。だからたった数回ロンドンのクラスで気の交流をした大谷さんの手の平が記憶に残っていたのかなと。実際病状の事はお互い多くを語らず、じゃあ、ここからどう生きようかという感じの話しをいつもしていました。それが2人とも本当に楽しくて仕方ありませんでした」
「特に、望月先生のお話しや本の言葉をお互いどう解釈したかなど。
がんや病気になった事について、彼女の解釈はこうでした。『望月先生がおっしゃった言葉とは違うけど、私はこう思う。1つのバケツに私たち一粒一粒がはいっているとして、そこには色々な色の粒が入っている。その粒が、絶えずピョンピョンとバケツから飛び跳ねる。つまり病気になる人に特定の理由がある訳ではなく、この粒のようにたまたま飛び跳ねた(病気になった)だけ。もしくは、同じ色のグループで同じく病気になったとも言えると思うの。これが私たちの地球(バケツ)ってこと』」



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