遥かなる旅―チベットでの「純粋経験」 

遥かなる旅―チベットでの「純粋経験」  (4)

「純粋経験」を体験した後で

 

 私がヤムドク湖のほとりで瞑想した体験は、希薄な空気の中で、言葉の末節が消えて、やがて見る主体と見られている客体もなくなり、それらが融けて一つ、禅でいう「一者」になりました。それは、禅の修行で得られる「空」とか「無」という世界なのかもしれません。
 この「無」の世界は、詩人を変えてしまいます。詩人が「花」といって、そこに宇宙に二つとない花を見るように、「花」と言った瞬間に、果てしない無の深淵から「花」が立ち上ってくるのです。そうして見ている主体の中に、「花」という意識が立ち現れてくるのです。これが言葉です。
 それを、井筒俊彦氏は 『意識と本質』 で次のように述べています。
「(略)私が『山』という語を発音する。するとたちまち『無』の深淵の奥底から『山』が立ち現れてきます。『無』の直接無媒介的自己顕現として。(略)他方、私が山と言い、その発音された語を私から離れた他者として聞くとき、私の中に意識が、主体としての意識が、これまた同じ『無』の深淵のさ中から立ち現れてきます。これが意識の発生です。」

 

 この「無」の世界は、言葉の無くなった世界で終わりではありません。言葉がなくては、日常の生活や他人とのコミュニケーションができません。
 この言葉のない世界から、また言葉の末節のある世界へ帰っていくことは、せっかく無の境地まで到達したのに、また元の木阿弥になってしまうようですが、そうではないのです。この言葉以前の体験をした後は、意識が一変してしまいます。この宇宙意識の根源、一者から分かれて現れてくるものは、それが分割して現れてくるのではないのです。一者が、まるまる宇宙の同じ分身として現れてくるのです。

 

 以前、福岡のヨーガの講習会の前に、魚専門のレストランで、イカの刺身を食べたことがありました。まだぴくぴく動いて生きていました。そのイカの目を見た瞬間、誰かに見られているという気がしてなりませんでした。
 不思議なことに、イカの目は、人間の眼球と非常によく似た構造をしていて、信じられないくらい複雑な眼球を持ち、人間の目に劣らないくらい精密にできているのだそうです。そのつぶらな黒い大きな瞳で、私をじっと見つめているのです。箸をもってイカの刺身へ手を出した瞬間、ぴくっと動き、思わず箸を引っ込めてしまいました。その時、誰かが見ていると、ふと奇妙な想念に襲われました。しかし、チベットでの純粋経験を体験してから、それは宇宙意識の本源、一者の分身が、今このイカの目を通して、私が、私を見ていたのだと気が付きました。

 

 朝起きて、ただ歯を磨いている時、私の脳の中では、デフォルト・モード・ネットワークのシステムが働いていました。デフォルト・モードとは、何もしないでぼーっとしている状態のことです。そのぼーっとしている時に、脳は不思議なことに活発に活動し、ひらめいているのだそうです。
 そのひらめきが、ほとんど忘れかけていた古い雑誌の文章を浮かび上がらせました。それは、ある人が水族館でイワシの群れを見ている時に、イワシの群れの無数の目に、見つめられているという錯覚に襲われ、ギョッとしたという内容でした。この時、私の脳の中のひらめきは、そのイワシの群れの無数の目の一つ一つが、宇宙意識の本源的な一者の、完璧な宇宙の分身なのだと気づかせてくれました。

 

 またある日の朝、無心になって髭を剃っていました。
 私の脳の領域に、砂漠がひらめきました。私が若いころ、一人で砂漠を歩いている情景でした。褐色の大地と青い空が、眼前に迫っていました。砂漠に座ってふっと脇を見ると、ポッカリと何かが口を開けていました。その暗い口の中は、言葉以前の世界、滅多に外には現れない宇宙意識の深部なのだと気がつきました。

 

 またある日、私のデフォルト・モード状態の脳に、こんな詩が浮かんできました。20代半ば、スウェーデン滞在中に書いたものです。

 

 「(略)
 いったい俺は誰だ と言って
 首をひねれば
 首がぬけた……
 首はいったい誰だ と言えば
 手が抜けた……
 手はいったい誰だ と言えば
 胴が抜けた……
 俺のからだはバラバラに分解して
 宇宙のチリとなる
 その奥に
 奥の
 奥に
 ほほ笑んでいるのは
 いったい誰だ
 その奥の奥から声がした
 ――おまえには
     俺が誰だか分かるまい
 そう言うおまえは いったい誰だ?
 そう言う俺は いったい誰だ?
 (略)
 自分とは 誰?
 なぜ 自分は ここにいるの?
 自分が ここに 来ているから
 自分が ここに 来ているとは?
 俺は俺ではなく
 俺の俺が
 ここに来ている
 (略)」                 『詩集 北冥』より (角川書店)

 

 その時、脳の神経細胞ニューロンのひらめきは、この詩の表現が、宇宙意識の入り口を見つけようともがいている、心の葛藤なのだと知らせてくれました。

 

 それからさらに脳のデフォルト・モードのひらめきは、「牛がくれた大いなるメッセージ」へとバトンタッチしてくれたのでした。

 

「(略)まわりのインド人たちは、大声を出した私の顔を怪訝そうに振り返りました。同時に、すぐ傍にいた牛も驚いたのか、ぐるりと大きな顔を回して私のほうを振り向きました。一瞬、牛の瞳が私の目をじろりと見ました。そのときです。私は、
『汝、崇高であれ』
 という言葉をはっきり聞きました。
 もちろん、牛が人間の言葉を話したわけではありません。しかし、私は、牛の瞳から明確にそのメッセージを受け取りました。言い換えれば、何者かが『汝、崇高であれ』という強烈な想念を、牛を通じて私に送ってきたのでした。」(『気の言葉』 講談社)

 

 これも、言葉以前の世界、宇宙意識からやってきたメッセージなのだと理解できました。