コロナ禍の生活のなかで考えたこと

コロナ禍の生活のなかで考えたこと 4


見ることの意味とは? 
 ここで素朴な疑問ですが、ヨーガでは、なぜ 「見るもの」 と 「見られるもの」 という見方が生まれたのでしょうか? このことを、私なりに考えてみました。

 見るということは、当たり前ですが、眼がなければ見ることはできません。
 5億年前、カンブリア紀に、動物に初めて眼が誕生します。それを想像してみてください。今まで真暗闇で、獲物を捕まえて食べる捕食活動は、直に手や口や舌で触る触覚的な捕食活動でした。それが、眼ができたことにより、獲物との間に距離が生まれ、より安全に捕食活動ができることになりました。

 動物は、獲物を見ることで、獲物の動きを察知して、次に何をすればいいのかを知りました。人類で言えば、獲物との間に距離が生まれたことで、相手の立場に立ち、戦略を練ることが可能となりました。
 動物は、眼の誕生で、見渡すことができるようになったのです。それは、俯瞰することができるようになったのです。ワシは、大空からウサギを俯瞰して捕食し、一方、ウサギは地上からワシを俯瞰して逃れるように。

 私たちは、道を歩く時、自動車を運転する時、すでに自分を上空から眺めているのです。私たちは、容易に地図を描くことができます。なぜでしょうか。私たちは、動物も含めて、眼を開くことによって、苦も無く鳥になりえたのです。
 それが証拠に、昔から絵巻や浮世絵に上空からしか描けない俯瞰図があります。レオナルド・ダビンチは、飛行機がない時代に、航空写真のような、精巧な縮尺図の街の地図を描いています。なぜこのようなことができたのでしょうか。私たちは、眼を持つことで、鳥になりえたからです。

 ヒトは、眼を獲得してから、見渡すことによって、俯瞰してものを見ることができました。俯瞰することで地図が生まれ、太陽や月や星座を見ることで時の地図=暦が生まれたのではないでしょうか。この暦も地図も、話言葉を必要としません。
 生物は、単細胞から多細胞へ進化して、空間と時間を認識し、やがて「意識の神経基盤」が登場し、短期記憶ができるようになります。ヒトになると、長期記憶が可能となり、記憶を地図や暦へ外在化したのです。そして、地図は大地を文字として読み解き、暦は天空を文字として読み解いたのです。

 ヒトは、眼の誕生とともに、外部を見ましたが、ある日、外部もまた私を見ていることに気づいたと思います。水面に映った自分の顔を見て、外部から自分を見ている自分がいる。その外部から見ている自分とは、誰か? そして、私は見られている、その見られている自分とは誰か? そうして私とは、私を見ることなのだ、ということに気づいたと思います。
 私の勝手な思い過ごしかもしれませんが、ここに、「見るもの」 と 「見られるもの」 というヨーガの考え方の起源があると、私は推察します。

 なぜこのように考えるのかというと、私には、外部から見られているという強烈な体験があったからです。
 20代の頃、シナイ半島の沙漠を歩いて放浪していた時のことです。そこには、褐色の大地と、雲一つない真っ青な大空が広がっていました。一瞬、何かに促されて、ふと空を見上げました。青い大空が、目蓋のない巨大な目玉になって見え、誰かに見られている、という不思議な感覚を持ちました。

 ヒトは見るということから、見つめる行為になります。獲物が追い詰められて、どう逃げようかとしている姿を見つめます。そして獲物の意図(眼に見えない考え)を思いめぐらします。
 この見る、見つめる、凝視(じっと見つめる)、熟慮(じっくり考える)は、眼が精神の起源であることを物語っていると思います。また眼の誕生と共に、私とは、初めから相手のこと、外部のことだったのではないでしょうか。「われ」 という言葉は、自分のこと(一人称)にも、相手のこと(二人称)にも使われます。

 ヒトは、眼を持ったおかげで、自分から離れることを強いられたのです。そのため私たちは、相手の視点に立って、ものごとを見ることがでるようになりました。家族のなかでも、母の視点、祖父の視点、父の視点、兄弟の視点に立ってそれぞれものごとを見ることができます。また、敵の視点に立ってものごとを見る能力もできました。
 この相手との距離、隔たりが、精神といわれるもの、霊といわれるものの遠い起源ではないでしょうか。

 以前、トルコのイスタンブールのヨーガ教室にでかけたとき、お土産屋のどこでも眼玉のアクセサリーを売っているのを目にしました。
 これは、トルコ語で 「ナザール・ボンジュウ」 と呼ばれ、トルコのお守りだそうです。これに似たようなものは、中東、ギリシャ、ヨーロッパ、アラビアにもあるそうです。エジプトにも、青い目玉の魔除けがあります。これは、目玉に「邪視」による禍を避ける威力があるお守りだそうです。
 このように、古代から目は、霊や魂と同じような力があると思われてきたのだと思います。目の持つ意味は、文字はもとより、言葉のはるか以前から始まっていたのです。古代人にとって、私とは、外部から私にとりついたものだったに違いありません。この考えが、霊や魂が身体を支配するという考えになり、 この人間の物語が古代の神話や叙事詩になり、演劇になって受け継がれ表現されていったと推察されます。

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