コロナ禍で、自分と向き会う日々

コロナ禍で、自分と向き会う日々 6

死と生

 若い時には、死は存在しなくて、どこか遠くにあるものだと思っていましたが、致命的な病気になった時にも、死は存在を露わにします。
 中村天風さんのような死を恐れない豪胆な人でも、満州から日本に帰って粟粒結核になり、死から逃れようとしてヨーロッパを歩き回ったほどです。(天風さんは、ラッキーで死ぬ為に日本へ帰る途中、エジプトのアレキサンドリア港の船の中でヨーガの先生と出会い、ヒマラヤでヨーガを修行し、病が治って日本に帰ることができました。そして心身統一法を編み出し、喉頭がんになっても、血を吐きながら講演を続け、92歳まで長生きしました)
 また、室町時代の高僧一休宗純が、臨終に際して 「死にとうない」 と述べたことは、この生きることに対する執着を捨てることは、ことのほか難しいということです。

 考えてみれば、誰でも100%例外なく死ぬのです。実はこの当たり前に分かっている死が、何なのか分からないのです。
 孔子は、死を問われて、「未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らむ」 と答えたそうです。生を知らないものは、死を知ることができないと言うのです。生きる構造がはっきり分かったときに、初めて死の構造も分かるというのです。死がなんであるのかを知るためには、生きるとは何かを考えることであるということです。

 しかし、死とは何か、生きるとは何かを考えて、それを理解したとしても死の恐怖が無くなるわけではありません。論理構造上の死を考えても、死の恐怖が消えるわけではありません。そこには、ヨーガという行・実践が必要なのです。論理ではなく、心の働きを止める実践が必要であると、ヨーガは教えます。簡単にいえば、ロゴス(言葉)を止めるということです。そして宇宙の叡智・レンマ的知性を持つことです。

 私たちは、言葉を使って生活をしています。言葉を使わなければ生活できません。言葉のない世界、レンマ的知性に達する時までは、言葉を使う必要があります。言葉で論理構造上の死を考えることによっても、そこから死の恐怖を消す力が生まれると思います。それは、原子を理論物理学で考えて、実験により原子から原子力という巨大な力を引き出したようにです。

 そこで、現在の生物学では、死というのはどういうふうに考えているのでしょうか。人間の身体は、60兆個の細胞でできています。そして、新陳代謝により、日々古くなった細胞が死んで、新しい細胞に生まれ変わります。細胞次元で見たら、人間は日々死んで、日々生まれ変わっているのです。

 私たちは、自分の身体を見て、皮膚や爪や毛髪が日々古いものと新しいものに入れ替わっていることを知っています。硬い骨でも、骨芽細胞(骨を作る細胞)と破骨細胞(骨を壊す細胞)がペアになっていて、骨の細胞を壊して、その後に新しく骨の細胞を作ります。そのようにして全身が毎日新しく生まれ変わっているのです。

 そして、身体の表面だけが新しく変わっているのではなく、脳細胞のDNAも、ヒトが生まれてから死ぬまで同一の原子で構成されたまま不動であるのではありません。今まで脳細胞だけは大切な細胞なので、わずかな例外を除いて一生変わらないとされてきましたが、常に分子と原子のレベルでは交換が起きていて、高速で入れ替わっているそうです。その流れ自体が 「生きている」 ということだそうです。
 生物学者の福岡伸一さんは、著書 『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)で、「私たち生命体は、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい『淀み』でしかない。しかも、それは高速で入れ替わっている。この流れ自体が 『生きている』 ということ」 であると述べています。

 そのことを、さらに分かりやすく浜辺に作った砂の城を譬えて説明しています。風や波で砂の城の一部に穴が開くと、風や波が新たに砂粒を運んできて補強するとします。砂の城は外見では何もなかったかのようにそこにありますが、実はこのように砂の城を作っている砂粒は、海から運ばれては城の一部となり、また海へ帰って行くように、新しく常に入れ替わっているというのです。
 そして、このシンプルな生命観を発見したのは、ルドルフ・シェーンハイマーという人物で、その発見からまだ70年ほどしかたっていないといいます。そして、シェーンハイマーの言葉を引用しています。

 「生物が生きているかぎり、栄養学的要求とは無関係に、生体高分子も低分子代謝物質もともに変化して止まない。生命とは代謝の持続的変化であり、この変化こそが生命の真の進化である。」

 シュレーディンガーの死後、『生命とは何か』で、彼は、「秩序は守られるために絶え間なく壊されなけらばならない」 と予言し、すべての物理現象に押し寄せるエントロピー(乱雑さ)増大の法則に抗して、秩序を維持しうることが生命の特質であることを指摘しました。福岡さんは、彼がそのメカニズムを示すことができなかったので、独自にそれを考えたそうです。
 その考えとは、「つまり、エントロピー増大の法則に抗う唯一の方法は、システムの耐久性と構造を強化することではなく、むしろその仕組み自体を流れの中に置くことなのである。つまり流れこそが、生物の内部に必然的に発生するエントロピーを排出する機能を担っていることになるのだ。」
 これをもっと分かりやすく言うと、生命は生きるために、自ら先回りして自らの秩序を壊しながらエントロピーを捨てているということだと思います。そうすると、生命は死ぬことによって生きているとも言えます。

 このように身体は日々変わっているので、「お変わりありませんか?」 「おかげさまで、相も変わらず元気です」 という挨拶はおかしいということになります。今日会った人は、一年後では別の人ということになります。もし殺人を犯して1年後に捕まっても、1年前の自分がやったことで、今の自分がやったのではないと言えます。
 こういうことを認めると、生きている事実が疑わしくなり、あらゆる生活の面で混乱をきたします。同じように、精神面でもそうです。心は絶え間なく変化しています。子供の時の心と、大人になってからの心では違います。でも、私たちは子供の時の自分と大人になった自分は同じであると思います。昨日の自分と今日の自分は、疑いもなく同じだと思っています。絶え間なく流動する心の流れを、全体として一人の心と認め、個人の人格を立てます。そうしないと生活して生きていくことができないからです。

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