48年ぶりのお花見

48年ぶりのお花見 4


慈愛の瞑想

 アイルランドの墓石の言葉、「私のために、祈ってください。」 や、京都の高台寺でのガイドさんの言葉、「どうか成仏できますように、お祈りください。」 や、ダブリンでの体験のように、その場所に残っている人の想念の波動を感じたら、私たちはどうすればいいのでしょうか? 
 それには、「慈愛の瞑想」 をすればいいことに気がつきました。(『いのちの知恵』の「自分を愛すること+慈愛の瞑想」を参照してください)

慈愛の瞑想は、次の三つでお祈りします。 

①私が幸せで、健康でありますように。
②私の周りの人々がみんな幸せで、健康でありますように。
③生きとし生けるもの全てが幸せで、健康でありますように。

 これは、神様に救いを求めて祈る行為とは、まるで違います。思いやりや、善意や、気遣いの心を呼び起こし、自我のこだわりを弱め、他者に対するいたわりの心を高めてくれます。


森と砂漠

 それから、上賀茂、下鴨神社でお花見をして、神社の境内の森を思って考えたことがありました。日本は、お寺、特に熊野、伊勢神宮、出雲大社などの神社には、必ず豊な森があるということが、強く印象に残ります。日本に住んでいると当たり前ですが、私のように海外生活が長くなると、京都の森が珍しく見えてくるのです。

 外国にいて、ユダヤ教のシナゴーグやキリスト教の教会、またイスラム教のモスクなどを見て回ると、周囲に森がないのです。周りにあるのは、人工的に作られた敷石などの広場です。そうして旅をして気がついたのは、ユダヤ、キリスト、イスラム教など砂漠から生まれた一神教には、森がないということでした。

 和辻哲郎は、著書 『風土』 で、その国の風土は、単なる自然環境ではなくて、モンスーンや砂漠や牧場などは、人々の精神に深く食い込んでいることを明らかにしました。砂漠に関しては、こんな記述がありました。
 「沙漠的人間の功績は人類に人格神を与えたことにおいて絶頂に達する。この種の功績において砂漠的人間に拮抗し得るものは、人類に人格的ならざる絶対者を与えたインド人のみであろう。」(『風土』岩波文庫)

 私は、イスラエルではキブツで生活したり、中東やサハラ砂漠を旅したこともあり、砂漠で生まれる精神状態が少し分かる気がします。
 サハラ砂漠を2週間かけて縦断したときのことでした。自家用車一台と小型トラック一台、大型トラック一台のグループで旅をしていました。トラックの運転手はアラブ人で、アルジェの港で陸揚げした品物をサハラの大砂丘を越えて、ブラックアフリカのマリ共和国へ運ぶのです。合計八人でした。その中に、三十代のノルウェー人のカップルがいました。
 サハラでは、褐色の砂地と青い空しかありません。広大な砂漠では、人間などは、砂粒のような存在です。道などはありませんが、アラブ人の運転手は目的地をよく知っているなと感心しました。道に迷って事故を起こしたのだろうか、たまに自動車の残骸が砂に埋もれているのを目にします。
 日中は暑くて、明け方は凍えるほど寒い旅をして10日ほど経ったころ、ノルウェー人の女性が、突然、「もうこんな場所は嫌だ!早くここから出たい」 とわめきだしたのです。ボーイフレンドがなだめて一時は落ち着きますが、またわめきだします。これをしょっちゅう聞いていると、私までも不安になって、ここから早く抜け出したい気分になりました。わめいている女性は、来る日も来る日も同じ荒涼とした風景を見て、死を思わせる静寂と褐色の砂丘と、死のような気味悪さを含んだ夜の闇が、狭所恐怖症の反対、広所恐怖症にさせたのではないかと思いました。私もそうでしたが、きっと目の前の広大な空間に呑み込まれそうで、怖かったのでしょう。
 この体験で、イスラム教のモスクや建物の壁に、アラビア文字や幾何学模様などが、所狭しとびっしり描き込まれて、白壁を埋め尽くしているのは、空白をなくすことで、この砂漠の空間の恐怖から逃れるためではないのかと思えてきました。

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