量子論の不思議な世界

量子論の不思議な世界 7


東洋思想に近づく量子論

 この宇宙は、分かっていることは、宇宙全体のたった5パーセントに過ぎないといいますから、私たちは、ほとんど何も知らないのと同然です。量子論もそうですが、分からないことを分かろうとして思索を深めていくと、科学者は東洋思想に行き着くようです。

 ボーアもそうです。古典物理学の 「粒」 と 「波」 とは矛盾するという概念を、量子論では同じ電子の中に見出すことができるといって、それを、「相補性」 という概念で説明しようとします。
 「相補性」 とは、相いれない二つが、互いに補い合って、一つの世界を作っているという考え方です。それを古代中国の 「陰陽思想」 で説明し、太極図を用いたというのです。
 また、量子論は、量子論の自然観を示すために、東洋思想の 「一元論」 に目を向けます。近代科学の根底にある、物と心、自然と人間などを分けて取り扱う二元論と対立するのが一元論です。量子論は、客観的事実の存在を否定して、一元論的な世界を示すために、インドのウ゛ェ₋―ダの哲学に近いのです。

 一元論で思い出しましたが、哲学者の西田幾多郎は、「物には二つの見方がある。」 といいます。物を外から見る方法と内から見る方法です。「即ち、分析の方法である。分析ということは、物を他物に由って言い表すことで、この見方はすべて翻訳である。符号Symbolによって言い表すのである。」続けて、「然るに、もう一つの見方は、物を内から見るのである。ここには着眼点などというものは少しもない、物自身になって物を見るのである、即ち直感Intuitionである。」

 東洋的なこの西田の考え方は、仏教学者鈴木大拙と共有していますが、デカルトと正反対です。デカルトは、自分自身さえ認識の対象として、外から見ることしかしてこなかったからです。したがって西洋近代科学は物を外から対象として見る限り、二元論(主観主義)でしかなかったのです。科学の 「客観的心理」 と思われていたものでも、実は主観性(人間中心主義)に過ぎなかったのです。主観主義では、自我が自然を支配し、人間の為に利用することが人間解放と思われてきましたが、その主体は欲望なのです。そこに現代文明の問題点があります。

 私たちは、昔から 「客観的な事実」 が存在するということを信じて生活してきました。つまり、ニュートン力学では、自然界のあらゆるものは、人間と無関係に存在していて、客観的に観測できると考えていました。ところがアインシュタインは、そうした客観的な存在を否定して、ニュートン力学の基本的概念を粉々に粉砕したのです。
 例えば、時間には普遍的な時間の流れなど存在せず、絶対的でもなく、過去から今、そして未来に直線的につながるわけではなく、今が過去や未来と同時にあり、今をどう見るかにより、過去も未来も影響を受けるというのです。つまり、観察者によって、時間の順序や長さが変わるというのです。それは意識によって、量子は空間を上下左右に移動し、時間を過去にも移動するというものです。

 この相対性理論の考え方を受け入れれば、聖書に載っている 「時・刻」 のギリシャ語の原語 「カイロスkairos」 と 「クロノスchronos」 の時間もよく理解できます。
 クロノスは、時計が刻む時のことで、過去から未来へ一定速度で機械的に流れる時間です。いわゆるニュートン力学でいう時間です。
 カイロスは、主観的な、永遠につながる時です。人間の内的な時間で、速度が変わったり、繰り返したり、逆流したり止まったりします。まさにアインシュタインが主張する相対性理論の時間といえます。

 また、西田の次のような考え方もよく理解できます。
 西田によれば、私たちは自然に流れている川を見る時、目の前の川の水は、瞬間瞬間止まっています。それは時刻で見ているからです。時刻の背後にある時間で見ると、川は切れ目なく流れています。この瞬間(今)の水も、上流(過去)の水とも、また下流(未来)の水とも、切れ目なくつながっているというのです。
 同様に、過去・未来の時の流れの中での 「現在」 とは、その時の流れの中に包まれつつ、区切れなく、その流れを包み、そうして過去・現在・未来が同時に存在するのだといいます。その流れの今を、西田は、「永遠の今」 と呼び、不連続の連続とも呼びました。これは、まさに相対性理論の時間そのものではないでしょうか。

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