死について考える

死について考える 1


 私たちは、生きている間に死に直面します。身内の死、友人や知人の死、ペットの死など様々です。
 人間は、自分を含めて、必ずいつかは死ぬことを理解しています。特に親しかった人が亡くなった場合は、悲しくて寂しくて、どうしようもない気分に包まれます。人間には、他人を思う共感力があるからです。そしていつかは自分も死ぬことが分かっていても、重篤な病気などしない限り、自分の死についてはあまり意識的に考えないのではないでしょうか。

 一方、自分の死について考える人もいます。最近、朝日新聞(2月7日「声」)を見て、13歳の中学生の投書、「死を思うことは 恐ろしいけれど」 に目がとまりました。

 「死んだら、どうなるんだろう。私はよく、そんなことを考える。

 天国や地獄という死後の世界が本当にあって、そこで存在し続けることができるのなら、そう願いたい。けれども、死によって私の意識も、心も、何もかもが永遠に消え失せてしまうとしたら……。いま、これを書きながらも私は、底なし沼に沈んでいくような恐怖に襲われている。そして、『まだ私は若いから』と思考を中断するのだ。
 他の人はどうだろう。私が敏感なのかと思ったが、まわりの友人に聞いてみるとやはり、恐ろしくて考えるのをやめるという。この恐怖からどうやって逃げたらいいんだろう。大人になったら、怖くなくなるのだろうか。

 死は、この世で命を授けられた生き物すべての宿命なのだと、改めて思う。生きるということは、死へ近づいていくこと。恐ろしいが、しかしそれに気づいたからこそ、この命を何かのため、だれかのために使い切りたいとも思う。死ぬ時、私は十分頑張ったと思えるような人生にしたい。そのために、私はどうしたらいい? 答えを見つけるべく、いまこの時を生きていこうと思う。」

 この投書からも分かるように、13歳の少年も死について考えると、「底なし沼に沈んでいくような恐怖に襲われている」 といっています。この少年だけでなく、ほとんどの人が、死について考えたら、恐怖に襲われるのです。死に関して無関心を装っている人でも、心の底には、常に死に対する恐怖心が潜在しているのです。

 実際に、死ぬことが非常に恐ろしくなり、それが動機になって、聖者になった人や、禅の一派を開いた人もいます。
 聖者になった人では、南インド出身のラマナ・マハルシ(1879年‐1950年)がいます。ラマナ・マハルシは、16歳の時に突然はげしい死への恐怖に襲われました。「死とは何か?」 を自分で解かねばならないと決意し、死への激しい恐怖によって、自我または霊魂の実在に目覚め、真我の探求者となり、真我を実現して偉大な聖者として崇拝されるまでになりました。
 また日本の盤珪永琢禅師(1622年‐1693年)は、幼少の頃から異常に死を恐れました。諸国を巡って修行し、赤穂の一草庵で重い病気に倒れ、ひん死の病床で忽然としてさとります。このさとりがあってから、気分がよくなり、食欲が出て回復し、不生禅を唱えました。

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