遥かなる旅―チベットでの「純粋経験」 

遥かなる旅―チベットでの「純粋経験」  (1)

三島由紀夫とUFO

 

「チベットとネパール思索の旅」のエッセイでは、UFOの写真も載せましたが、そんな折、今年(2018年)3月4日の朝日新聞の広告欄に、「芳村真里 最初で最後の手記」と題して、「UFOを呼ぼうとした三島由紀夫」とありました。ちょっと興味をそそられた私は、東京のヨガの生徒さんに頼んで、週刊新潮の以下のような手記の中身を教えていただきました。
 芳村真理さんは、昭和58年(1983年)、ラジオ出演から「婦人公論」の対談が始まり、その流れの中で作家の三島由紀夫氏と対談でお会いしたそうです。対談でお会いしたと言っても、もともと三島氏とは六本木の遊び仲間だったそうです。

 

「あるとき『真理ちゃん、浜離宮に3日後にUFOが出るから見に行こう』と、三島さんから電話がかかってきたのです。まさかと思ったけれど、そのころやっていたラジオのプロデューサーに話しました。重たい録音機を肩に、一緒に浜離宮へ。訝しげでした。
『本当にでるんですかね』
『でも三島さんほどの作家さんが、真剣なんだから。ひょっとしたら、本物の宇宙人の声が録れるかもよ』」

 

 ところが1時間待っても、2時間待っても、UFOはとうとう現れず、三島氏はそのうち呪文を唱えだしたそうです。呪文を唱えだしたくらいですから、よっぽどUFOに会いたかったのでしょう。
 そんな記事の内容を知って、三島由紀夫がUFOに興味をもっていたことが意外でした。そして、UFOに会いたいとも思わなかった私が、どうしてUFOに追いかけられるようなことになってしまったのかよく分かりません。

 

 

「純粋経験」を体験する

 

 さて、チベットでは、私が最も興味をひかれたのは、UFOとの出会いよりも海抜4,500メートルでのある体験でした。その体験をした時の状況を、チベットの旅のエッセイから引用してみます。

 

 「やがてバスは山裾を回り込みながら、どんどん坂道を登って行きます。高くなるにしたがって、眼下には山と山の間に深い谷間が見え、山の斜面の所々に白い氷のようなものがあります。
 周囲の山々は、さらに高く連なって、行く手をふさぎます。そうして、一番高い峠に到着してバスを降りると、そこは標高4,750メートルのカムパラ峠です。幸い風がないので寒さはそれほど感じません。お天気がよく、ちょうど青い空が広がっていて、大きなエメラルド色のヤムドク湖と、周囲の山々が遠く連なって見渡せます。チベット語で、「トルコ石の湖」 と呼ばれている意味がよく分かります。
 両手と両足がジンジンしびれている感覚と、歩くと足が重い感じがし、ちょっと無理をすると息が荒くなることで、この峠の高さを実感できました。

 

 その峠を下って湖のほとりまで行きました。湖といっても標高4,500メートルもあります。そして、ヤムドク湖の水面は青く、水は澄んでいました。ガイドさんが、小さい魚が沢山いますが、チベット人は魚は食べません、と言うのを聞いて、私は、『魚は……魚は……』、と思って、そこから先の、『どこからやってきたのだろうか』、という頭の思考が働かないのです。この時私は、ふと、『純粋経験』という語を思い出しました。

 

 この空気が希薄で、思考がストップした状態は、哲学者、西田幾多郎の『純粋経験』の世界に似ています。どういうことかというと、目の前にある湖を眺めている、この瞬間、自分に見ているという意識(主観)がないので、向こうに湖があるという意識(客体)がないからです。『純粋経験』とは、主観と客観が分かれる前の意識状態だからです。西田は、この純粋経験こそが、本物の実在だとして、ここから道徳や宗教など全てを考え直し、その研究成果を、『善の研究』 としてまとめたのです。

 

 ところが、この『純粋経験』という考え方が、世界の哲学史の中でも特異な存在で、難解なのだそうです。私は、このヤムドク湖で、なぜ難解なのかが理解できたようです。それは、意識は言語で、西田のいう『純粋経験』はコトバ以前の世界、つまり言語のない世界のことを述べているからだと思います。

 

 今までの哲学の一般的な風潮は、『存在とは言語』 であるということでした。言語学や精神分析学や哲学の世界でも、言葉のない世界を認めていません。『言語の限界が世界の限界』なのです。聖書でも、『始めに言葉があった。言葉は神であった』 と言っています。

 

 私は、今、この空気の希薄なチベットにいて、思考のストップした状況で、言語のない世界はあるという実感を持ちました。この言語のない世界は、それを体験した人しか分かりません。それを説明すればするほど、言語のない世界とは程遠い世界になってしまいます。

 

 『ヨーガ・スートラ』では、ヨーガとは心の働きを止めることである、と説きます。心の働きとは言語です。言語を止めると、その言葉のない世界に本当の自分、真我が現れ、それは宇宙そのものであり、宇宙と自分は一体である、と説きます。チベット文明の英知の流れをついでいる土着の宗教、ボン教にも、言語のない世界があります。私は、なぜヒマラヤから言語を越えた哲学、宗教が現れたのか、このヤムドク湖の体験から理解できたような気がしたのでした。

 

 その湖畔で、お昼を食べる前に、30分瞑想することにしました。雑念は出てきません。ただ澄み切った、冷たい空気を鼻で感じ、…… 目を閉じました。

 

私は、時間と場所の感覚がなくなったようです。
…… 目を開けると、もう30分が過ぎていました。
エメラルド色の湖が、湖であるように、
天空の三つの雲が、雲であるように、
湖と雲は、ただそのように在る ……

 

 そして、アボリジニが青い空を見つめて、宇宙と一体となる 「ドリームタイム」 に思いをはせました。」