こころの持ち方 (3)

こころの持ち方 (3)

芭蕉の不易(本質)と流行(現象)

 ここで余談ですが、松尾芭蕉は不易(本質)と流行(現象)を詠むために、東北地方へ歩いて旅をして 『奥の細道』 を書きました。この長い距離を歩いたことが大切です。西行法師もそうです。歩くことで、足元の草花から宇宙の大自然をつぶさに観察することができたのです。西欧では、道は石畳で舗装されて馬車が発達しましたが、日本は山が多く、歩く方が便利だったのです。
 文学者ドナルド・キーンは、著書 『渡辺崋山』 で、「(略) かなり後の時代まで旅はゆっくり時間をかけてするもので、時には危険も伴った。しかし、日本人は怖気づくことがなかった。神聖な場所、過去の歌人たちが霊感を得た場所を旅するのが、日本人は好きだったのだ。(略) 西洋の典型的な旅行者たちと違い、日本人はどこかの山の頂上に誰よりも先に足跡を残す人間になりたがったり、これまで荒らされていない村を台無しにする最初の人間になることを望んだりはしなかった。(略) 時の経過がもたらした荒廃について歌を詠むためだけに、その場所を訪れたのだった。」 と述べています。
 渡辺崋山は、幕末に生まれた武士で、肖像画の大家です。彼の描いた肖像画 「鷲見泉石像」 は、国宝に指定されているほどです。崋山は、長い旅をしたわけではありませんが、「四州真景」 という一連の旅のスケッチをしています。
 それについてドナルド・キーンは、「(略) 釜原の草原のスケッチは最も胸を打つものの一つで、(その小さな寸法にもかかわらず)見渡す限りなだらかに続く草原の広さを伝え、そこでのんびりと馬たちが草を食んでいる。ふつう山々が主体となっている日本の風景画では、空が重要性を帯びることはめったにない。しかしこの画の空は、オランダの風景画の空のように見る者の眼を引きつける。この画に特別な魅力を添えているのは、草原の中の一本道を歩いている二人連れの姿で、どうやら父と小さい息子であるようだ。」(『渡辺崋山』より)
 私も、この 「釜原」 のスケッチ画を見て、心を動かされました。空が 「不易」 で、二人連れの親子が 「流行」 を、言葉ではなくスケッチで表していると感じました。
 そして、彼は、崋山のスケッチ画は、「この画の空は、オランダの風景画の空のように見る者の眼を引きつける」 といいます。このとき、とっさに浮かんだのが、フェルメールの 「デルフトの眺望」 でした。絵の三分の二を空が占めています。フェルメールは、風景画は2点しか描いていませんが、傑作です。人間と川とデルフトの町が 「流行」 で、空が 「不易」 です。日本人がフェルメールを好きになるのも分かる気がします。もともと、フェルメールの生きた時代は、長崎の出島でオランダ人が唯一日本の鎖国時代に出入りを許されていのです。ある美術史家によれば、『失われた時を求めて』 の作者でフランスの小説家マルセル・プルーストは、フェルメールの風景画に 「永遠のかたち」 を見ていたといいます。それは、芭蕉の俳句、「不易」 と 「流行」 を、デルフトの風景画から、一瞬に覚ったのかも知れません。
 また美術史家によれば、ヨーロッパでは宗教画が主流だったときに、風景画を描いたのは、フェルメールの斬新さで、哲学者スピノザの影響があるといいます。フェルメールとスピノザは、同年代でした。スピノザはユダヤ人で「自然は神である」と汎神論を説きました。そのため、オランダのユダヤ人社会から追放されました。その頃、日本の芸術はジャポニズムの先駆けとして、すでにヨーロッパに影響を与えていました。日本の小袖が、「ヤポンセ・ロック」という名前で、上流社会へ普及していました。それは、フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」や、その他の女性や男性が身にまとっている襟を見れば、それが日本の着物だと気がつくはずです。
 さらにドナルド・キーンは、「また別の一群のスケッチは、海辺に聳え立つ大きな岩を描いている。最も印象的な『浦中』には、(略) 大胆な角度、垂直の側面、短刀の切っ先のような頂点、そして、岩と岩の間で砕ける波、(略) 旅人らしい二人の小さな人物がいなければ、セザンヌと見間違えるところだ。」 と崋山のスケッチを 「崋山の先にも後にも絶えて類のない忘れがたい光景である」 と絶賛しています。私も、「浦中」 はセザンヌと同質の感性を感じました。