コロナ禍の生活のなかで考えたこと

コロナ禍の生活のなかで考えたこと 8


教典から学んだこと(二)
 また、私が、20代に5年間放浪生活をして、その頃からこんなことをやっていて一体何になるというのだろうか。何の役に立つのだろうか。ひょっとして自分の人生は、自分勝手で、バカな無益なことをしているに過ぎないのではないか、という良心の呵責に苦しんできました。それを、私は、次の経文で救われました。

 「見られるものとは照明、行動、停止の性格をあわせそなえ、物質元素と知覚、運動の器官とから成り真我の経験と解脱とをその目的とするものをいう。」(二・一八)

 見るものは、絶対的な純粋観照者という特質がありますが、見られるもの(自然・自性)にも、特質があります。それは、三種類のグナ(徳・エネルギー)から成っているということです。サットバ(光と平安)、ラジャス(不安と活動)、タマス(惰性と無知)の三つです。ここの 「照明、行動、停止」 とは、サットバ、ラジャス、タマスに相当します。
自然・自性(プラクリティ)には、この三種のグナから成っていて、その性格は矛盾する関係にあり、互いにその主導権を争うような形で三つ巴になっているというのです。
この三つが動いて、自然・自性ができているというのです。
 水で言えば、タマスの性質を持てば氷になり、ラジャスの性質を持てば水になり、サットバの性質を持てば水蒸気になります。
 人間でいえば、タマスの性質が優位な人は、不活発で、従順で、人の命令に従います。ラジャスの人は、やたらに活動的で、しばしば問題を起こします。サットバの人は、静かに本当の自分に目を向けます。どんな人でも、この三つに収まるといいます。
 この三つの性質で、人をよく見てください。どなたも、この三つに該当することが分かると思います。

 この性質も、ヨーガをやることで変わっていくのです。いつもネガティブに考えて、自主性がなく、人の言うことばかり気にしている人が、ヨガをやり明るく活動的になったりします。これは、タマスからラジャスへ変わったのです。
また、あちらこちらへ顔をだし、活動的で落ち着きがなく、時々問題を起こす人が、ヨーガをやってから、休みには一人で山へ出かけて、テントの中から星空を見て瞑想することが楽しみになった人。この人は、ラジャスからサットバへ変わったのです。
 この見られるもの(自然・自性)には、二つの目的があるというのです。一つは、見るもの(真我)に見える世界を経験させ、楽しませることにあるというのです。もう一つは、真我の解脱(解放)を助けるためにあるというのです。
 私は、このことを理解してから、幼少時代の病気の体験や、インド、中東、アフリカ大陸などの放浪の体験は、真我に経験と楽しみを与え、真我の解放を助けるためにあったのだと理解できました。そして、良心の呵責から解き放たれました。


純粋観照者
大海原の白波よ!
白波の一つ一つが、みんな純粋意識(真我)としても
個人個人は、別々だと思う
ある白波は、自分は男であると思う
ある白波は、自分は女であると思う
ある白波は、自分は病気であると思う
ある白波は、自分は健康であると思う
真我がそう思ってしまうのは、真我が心の働きに同化してしまうからだ
その心の働きを消滅させたら、みんな純粋意識なのだ
白波が、大海へ帰ったら、みんな同じ海水のように・・・・・・
白波には、本当の自分が海水だと分からない
なぜだろう?
言葉があるからだ
心の働きがあるからだ
白波が無数にあるように、純粋意識は無数にある
大海が、宇宙意識としたら、無数の純粋意識は宇宙意識へ帰るのだ
宇宙意識とは、言語なき意識のこと
神とは、言語なき意識のこと
個人の純粋意識は、言語なき意識で宇宙を眺め
真我の独存、純粋観照者となる


 コロナ禍で考えたことを、とりとめもなく記しました。最後までお読みくださり、ありがとうございました。皆様のご参考になれば幸いです。

2020年9月4日      望月 勇


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