ヨーガを生きがいとして

ヨーガを生きがいとして 7


 前にも書きましたが、素晴らしい生き方があるとすれば、幸せを追い求めることをやめて、毎日同じことを繰り返すことです。毎日ヨーガをやって、同じことを繰り返して、「今ここ」 に心をおくのです。過去でもなく、未来でもない、「今ここ」 に心をおくと、いま生きていることに気づき、命を感じ、生かされていることに気づかされ、感謝の気持ちが湧いてきます。

 最近、朝日新聞の投書欄を見て、86歳の男性の投書に目がとまりました。こういう人が、幸せを求めないで、感動を死ぬまで続けて、結果幸せなのだろうと思いました。

 「NHK連続テレビ小説「らんまん」は植物学者、牧野富太郎博士をモデルにしており、毎日楽しみに見ている。
 何回目であったか、博士が採取してきた水草を長屋の衆に示すと、一人のおかみさんがヒルムシロとつぶやく場面があった。(略)
 不気味な蛭(ひる)と、わらむしろを連想させる名である。奥丹波の方言と思い込んでいたのが、ドラマで能登地方でも使っていると知ってから、調べてみる必要ありと、まず日本国語大辞典をひいてみた。枕草子六十六段に「草は」として「ひるむしろ」が出ている、とある。清少納言も使った言葉であることにびっくり。久々に学ぶ楽しさを感じたものである。こうした感動を死ぬまで続けていきたいものだ。」(2023年6月27日、朝日新聞)

 このNHK連続テレビ小説を私も見ていますが、この牧野富太郎に教えられることが多くありました。
 まず牧野の植物に接する態度、植物標本をつくるこだわり、日本の全植物の図鑑をつくること、これらが彼の生きがいとなっていて、そこには幸せを追い求める姿は毛筋ほどもありません。が彼は、生涯幸せ者でした。
 彼の生き方は、生きる意義を持てば、どんな辛いことにも耐えられて、生きるに値することができます、と教えてくれているようです。

 私は、今、アウシュビッツの強制収容所を生きのびた心理学者、ヴィクトール・フランクルを思い浮かべました。
 フランクルは、著書 『夜と霧』 の中で、強制収容所のガス室送りと処刑、それに過酷な労働と発疹チフスの蔓延のなか、いつ果てるとも知れない死の恐怖に直面しながら、生きるという体験をしました。
 戦後、彼は、いかに気力をふりしぼって生き延びたかという質問を受けたそうです。彼はその質問に答えて、「生きる意義を一つでも持つものは、ほとんどどんな生き方でも耐えることが出来る」 と哲学者ニーチェの言葉を引用したそうです。生きる意義は、人の数だけ答えがありますが、ここには常に楽しい体験をする、幸せを求めるということは、一つも入っていません。人生の意義は、ニーチェに言わせると、生きたいと思わせるような目的がある時にだけ、人生というのは生きるに値するというのです。

 ところで、フランクルが強制収容所の絶望の淵で、多くの仲間が死んでいくなかで、生きたいと思わせたものは何だったのでしょうか。
 それは、生きることは、苦しむことも死ぬことも含めたすべてであって、この苦しみにみちた運命とともに、全宇宙にたった一度、そして二つとないあり方で存在していると意識したときでした。そのとき、彼には人生は生きるに値すると思えたのでした。

 幸せを求めず、生きる意義を感じられることに没頭した時に、幸せは生まれるのです。植物学者・牧野富太郎のように。

 ヨーガを生きがいとして始める人は、どうぞ幸せを求めず、ヨーガをやることに生きる意義を見つけてください。
 機織りのように、毎日ちゃんとヨーガをやって、「今ここ」 に心をおいて生きてください。その後に、よく生きたという幸せの布ができていくでしょう。


2023年7月8日      望月 勇

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