コロナ禍で、自分と向き会う日々

コロナ禍で、自分と向き会う日々 4

高齢者ということ

 このような心の金庫を開けながら、大切な思い出を味わっていました。一方で私は、忙しさから解放されて、今72歳の自分が、高齢者であることを意識しました。世界保健機関では、65歳以上を高齢者と定義するそうです。
 そうして、高齢者になって、初めて 「青年」 を意識できることをしりました。若い時には、不思議なことに 「青年」 は存在しなかったのです。私が、20代に、一人でシナイ半島を歩いた無謀な旅には、私の心の中に、「青年」 という意識はありませんでした。高齢者となって、初めて 「青年」 は存在しました。
 死もそうです。若い時には、死は身近に存在しなかったのです。死はどこか遠くにあるものだと思っていました。それがこの年になり、同じ年代の人たちが亡くなっていく姿を見ると、死は身近に存在するものになってきました。

 三木成夫がいうように、人生は束の間のおもかげとして過ぎ去って行き、それらは、生命記憶となって宇宙に刻み込まれるのです。宇宙や生命の歴史からみたら、人生はほんの一瞬、束の間です。束の間であるからこそ、生きていることが、なにげない日常が、かけがえがなくて、尊くてありがたいのです。

 私は、そのことを、今年の2月に体験することになりました。1月にロンドンから帰って、12時間のフライトの翌日から、毎日気功治療とヨーガ気功教室が続き、芦屋、名古屋、岐阜、仙台と走り周り、松山へ飛び、その後東京から福岡へ飛びました。そして東京へ戻った時、何かおかしいと感じました。

 それは、やがてヨーガ気功教室で現実となりました。言葉のろれつが回りにくいことと、今まで造作なくできていた逆立ちができなかったことでした。その夜、都立の広尾病院の緊急外来へ行きました。コロナウイルスの影響のせいか人が少なく、ちょっと待たされただけで診てもらうことができました。
 血圧が270を超えていましたので、倒れることを心配したのか、医師は看護師に腕を支えているように指示しました。そして、その場で即入院ということになりました。幸運なことに、ベッドは一つだけ空いていました。そして、病室のベッドで水だけの点滴が始まりました。血液が異常に濃いということで、二日間も点滴を続けました。

 普通は、血圧が270を超えていたら立っていられないか、倒れてもおかしくありません。そのような状態で、私は自宅から15分歩いて、広尾病院へ行くことができたのでした。それは、200前後の血圧に慣れていたからだと思います。

 気を出すと血圧が上がることは、知っていました。以前、ミキモトパール社長の奥様を気功治療した時のことでした。奥様は御木本澄子さんという高名なピアノの大先生で、ピアノ奏法のミキモト・メソッドを作ってしまうくらいなので、好奇心旺盛な人でした。治療中に、気に興味を持ったのか、ちゃめっ気のある彼女が、「気はどうして出すの? 先生の血圧を当ててみましょうか、脈を診れば100%当たります」 と自信ありげにいうのです。
 私は、音楽家で感覚の鋭い人だから分かるかもしれないと思って、左手を出しました。すると、「わーっ大変!私どうかしているのかしら」 と叫びました。きっと、血圧が想像を絶していると思ったのでしょう。

 もう1回は、まだ私の母親が生存中に、実家に帰って母親を診て上げた時でした。私の体を心配したのか血圧を測ってみなさいというのです。母は、毎日測っている自分の血圧計を持ち出してきました。測ったら200近くありましたので、母はびっくりして直ぐに病院へ行かなければと慌てました。私は、大丈夫とけろっと言ったので、不思議そうな顔をしていました。

 中国の気功の文献に、気功師は気を出した瞬間から血圧が上がっていく傾向があるという記述を見つけて、やっぱりそうかと思いました。また、ミュンヘンで色々な身体測定器をもっているドイツ人が、気功治療の前に腕時計型の測定器を私の腕に付けました。取り外してから、「あなたは、静かに座っているだけなのに、なぜ脈拍はジョギングしているような脈をしているのか?」 といって、測定器をいぶかしげに見ていました。

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