2019年 高野山と熊野古道

2019年 高野山と熊野古道 (1)


 折しも、沛然として雨がふった。

 高野山の恵光院のお堂で、瞑想を始めた頃であった。
 高野山は、その日は大雨の天気予報だったが、朝から青空が見えるお天気になり、奇しくも弘法大師空海の生誕日だった。

 不思議なことがあった。
 お堂は上着がいるほど寒くなっていたが、私の右顔面に熱を感じたのである。電熱器のような熱だったので、最初は、お堂に暖房が入ったのかと思ったが、そんなものはないと気づいた。そして、しばらくして、熱は消えた。

 青い空は夕方になり、にわかに暗くなって、とうとう雨になったのだった。
 驟雨の音が、なぜか懐かしく心地よく響く。
 やがて、雨は沛然と降り、よく手入れされた庭の樹木の葉に当たる音がして、そしてお堂の屋根にも、軒にも雨だれの音がしだした。
 雨脚はだんだん強くなり、強い風が吹き、木立ちが騒ぎ、雨音も強くなったり弱くなったりを繰り返して一段と激しさを増してきた。

 この雨音は、太古から今に続いてきたに違いない。
 空海も耳にしたであろうこの太古の雨音は、今にあり、この今の雨音は未来にも続くと思えたら、この雨音の瞬間に、過去、現在、未来が重なって、同時に時空を超えて存在しているという、パラレルワールドの世界が現実味を増してきた。

 そうして、風雨はやがて穏やかになり、瞑想が終わるころにはほとんど止んできた。外気は、澄んでいて新鮮だった。雨に洗われた植物の葉の匂がただよっていた。

 瞑想中に、雨音はまったく気にならず、かえって降り始めから最後まで一部始終を観察し、雨とは何と完璧なのだろうと、私は感心したのだった。

 雨音は私を包みつつ、雨音は私に包まれている。私は、雨音を包んでいるのだ。

 自分の心の中に、雨音があると納得した時、雨は、私の心の中で進行中の完璧な作品だと思えてきた。それは、ダイナミックに変化し、常に完璧さを映し出していた。この完璧な宇宙の中では、人生の失敗や過ちの中にも、美しさや完璧さを見つけられることを意味している。なぜなら、それらが私をさらに深い気づきへ導いてくれるからである。

 そのようにして、私は、雨の完璧さを観察し始めた時、外界の世界がそれらを反映し始めているのに気づいていた。その外界の完璧さは、私の心の中で始まり、翌日外界の世界はそのようになっていったことで分かった。
 私は、心の中の宇宙を観察し、思い描くことで、自分にとって最善のものを引き寄せ、それは宇宙の為に私ができる最善のことであった。

 こうして恵光院でのヨーガと瞑想は、格別な余韻を残して終わった。

 夜が更けて来ると、もの凄い土砂降りになってきて、雨音がうるさくて夜眠れなかったという人もいたという。
 翌朝には、小雨がまだ降っていたが、お昼ごろには止み、だんだんと晴れてきた。

 お昼が過ぎると空は、昨夜の土砂降りがウソのように青く晴れ、私たち40名近い人数は、大型バスで高野山から熊野古道へ向けて出発した。
 途中バスは、雨に洗われた新緑の曲がりくねった林道をぬうように走り、下ると清流の清々しい風景が開けてきた。

 やがてバスは、和歌山県と奈良県を通り、三重県の熊野三山へ向かった。
 雨が多い土地なのか、関東と違い、山々の木立ちが丸々とこんもりして感じられる。

 途中バスを降りて、熊野古道中辺路(なかへち)を歩いた。熊野の森の中をぬって走る細い道、人ひとりが通れる世界文化遺産の古道を歩くと、木漏れ日がやさしく、吹く風が心地よかった。ガイドさんが、昨日来ていたら土砂降りで歩けませんでしたね、といった。古道は、登りと下りが適当にあり、その起伏の所々にはひなびたお堂が祭られていた。

1 2 3 4 次ページ>>