死について考える

死について考える 8


死後の存続

 さらに、頭で個人的生命の死後の存続を納得し得たとしても、そこで死の恐怖が消え去るかというと、そうではありません。今度は、さらに強い恐怖の種が芽生えてくるからです。死後の生活への心配です。死後の世界を固く信じていた時代の人々には、それがどんなものかということへの心配です。中国の秦の始皇帝の墳墓や、日本の古墳や、エジプトのピラミッドなの遺跡を見れば死後の心配がよく理解できます。
 古代人の死後のイメージは、うす暗い世界で、明るくはありません。死体の悲惨さからそう思うのかもしれません。また宗教では、食べられず水も飲めない世界、殺人や暴力などの血なまぐさい地獄の世界と、天国のような明るい世界をイメージしました。
 現代では、人間存在の死後の存続を科学的に追及しようとして、心霊科学や超心理学などが生まれ、最近では量子論によっても考えられています。

 ところで古代インドでは、死後の生存という観念の上に、輪廻転生という観念が加わりました。何回も死んでは生まれるという考え方は、古代インド人には、恐怖でした。古代インドでは生きることは苦と考えられていましたから、それが車輪の輪のように永遠に繰り返されると思うと、耐えられなかったのです。生まれて一度だけ死んで、友人や先祖が待っている光輝く国へ移って永久に楽しめるなら希望になりますが、何回も生まれては苦しみを繰り返すのは、インド人には恐怖に感じられたに違いありません。
 世界で最も古い哲学書ウパニシャッド(紀元前7世紀頃)には、輪廻転生の輪から、解放されるべき最高目標がかかげられていました。つまり梵我一如。個人(アートマン)と宇宙(ブラフマン)が一体である唯一実在について説き示すようになりました。
それ以来、多くの哲人たちが、輪廻の輪から抜け出す自説をうち立てました。ブッダが生まれる数百年も前のことです。
 このように古代インドでは、人間は永久に死を経験せずに生き通すことができるのか、それは一体どういう方法で実現できるのか、というインドの伝統的な問題意識が、ブッダを出家させた動機なのです。そしてブッダは、「解脱」 して輪廻の輪を抜け出し、「ニルバーナ(涅槃)」 という不死の世界に入ったのです。

 このように見てくると、死の恐怖を消すのは、大変なことのようです。
 中村天風さんは、心身統一法を編み出した人物ですが、若いころ満州で軍事探偵をして、人斬り天風と言われた豪胆な人でした。その死をも恐れない天風さんが、帰国して、当時不治の病と言われていた粟粒性結核になったのです。死に直面すると怖くなったのでしょう。アメリカやヨーロッパを放浪し、治してくれる人を見つけようとしたが見つからず、どうせ死ぬなら日本へ帰ろうと思い、フランスのマルセイユ港から日本行の船に乗りました。そして、エジプトのアレクサンドリア港で、たまたま乗船していたヨガの師に出会い、インドへ行って修行をすることになり、病を治して日本へ帰国します。
 私が想像するには、最初天風さんはロゴス的知性の持ち主だったのが、インドでヨガを修行している間に、レンマ的知性が身につき、さらに直観が磨かれたのではないかと思います。
 ロゴスとは、言葉や論理によって考えることで、ふつう理性をさします。一方レンマとは、脳によらない直感によって、まるごと把握することです。
 直観とは、西田幾多郎によれば、「物自身になって物を見るのである」 と言っています。
 死の恐怖から逃れるには、レンマ的知性の直感を使うしかないようです。先にも書いたラマナ・マハルシや盤珪永琢禅師のように。

 冒頭の13歳の少年の投稿に対して、「どう思いますか」 という朝日新聞の呼びかけに応えた詩人の谷川俊太郎さんが、「怖さ薄れ、ちょっと楽しみ」 を投稿していました。(3月16日付の朝日新聞)

 「子どもの頃は、自分の死より母親が死ぬのが怖かったです。自分より、自分を愛する存在の死が怖いという感覚は、ほんとに長い間続きました。
 若い頃の死の感覚は、とても抽象的でした。90歳の今は、足がおぼつかなくなってくるとか、視力が落ちてくるとか、匂いや味の感覚が薄れていくとか、そういう老化が死と結びついてきているわけですよ。死が親しみ深くなっているといえば変な言い方だけど、身近になっています。死はどういうことかわからないからやっぱり一種の恐怖も残っていますが、それはだんだん薄れていて、好奇心がある。なんか、ちょっと楽しみなところがあるわけですね。
(略)
 僕は、言葉ってものをあんまり信用していないんです。言葉の宿命みたいなもので、実在そのものに迫りたいと思っても、実在は言葉では捉えられないんです。死についてもそうだと思います。だから逆に言えば、死の先に何かあるのかな、という楽しみも生まれてくる。僕自身は、生と死はつながっているという風に思っているんですけどね。」
 谷川俊太郎さんも、実在は言葉では捉えられないように、死についてもそうだと思うと言っています。ロゴス的知性では、死の恐怖からは逃れられないのです。

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