心とは何かを探し求めて

心とは何かを探し求めて 2


自分の人生を振り返る

 現在のコロナ禍で過ごしていると、いいこともあります。それは、自分の内側へ目を向けて考えることができる時間を持てることです。そこで、今までどんな生き方をしてきたのかを振り返り、これからどう生きればいいのかを、自分自身に問いかけてみることにしました。

 私の人生を振り返ると、まず幼児期には大変な病弱であったことです。そのため幼児から強く死を意識して過ごしました。その体験が、心とは何か? 自分とは何か? を知りたいという欲求を芽生えさせたようです。

 青年期には、人並みに健康になり、その頃学生運動が盛んになりました。当時私は、大学の新聞学科に在籍していました。私のエッセイを読んだ早大生に、「君の書く文章はなかなかセンスがいいぜ」 とおだてられ、早大生や東大生の集っているサークルを紹介されました。そのセクトの新聞記事を書いたこともありました。私は、記事をかきながら、このような仕事は自分に向いていないと思いました。世の中を変えるということは、何かが間違っているので変える必要があるという行為で、問題に対する批判のエネルギーをますます増大させるだけはないかと考えたからです。そして自分自身を変えないで、相手や周りを批判しても、反発されるだけで何も変わらないと思ったので、私はそのグループから離れました。

 それから私は、会社に入社したものの、自分はこれからどう生きていけばいいのか模索していました。仕事は一生懸命しましたので、社員には好感を持たれていました。また社長が仕事の能力を買ってくれて、特別手当をだしてくれると、会社に絡めとられるような気がしてきました。すると、サラリーマンで終わりたくないという気持ちと、以前からあった自分とは何者か? を知りたいという気持ちが強くなってきました。結局、社長の反対を押し切る格好で、3年務めた会社を辞めました。25歳の時でした。そして当時の社会の閉塞感から抜け出すように、海外へ5年に渡る放浪の旅にでたのでした。

時よ来い 
ああ時よ来い
心の燃え立つ時よ、来い!

 愛読していたアルチュール・ランボーの詩をつぶやきならが、私は、ヨーロッパ各地や、中東などを放浪しました。
 冬のある日、イタリアのローマの広場にいました。私の目の前に、余り目立たないサン・ピエトロ・イン・ウ゛ィンコリという教会がありました。教会の扉を潜ると、空気がヒンヤリとして、洞窟の内部という感じでした。現在は観光客でごった返していますが、当時はがらんとしていて、大理石の床に、丸い石柱がうっすらと影をうつしていました。その薄明りに、ヌッと大男が現れました。ミケランジェロのモーセ像でした。モーセは、石板を抱えて休憩していました。
 私は、その男の足に、無条件に惹きつけられました。大理石の布を透かして見える右足は、樫の幹のようにこぶこぶとして、太く、たくましかったのです。私は、その足に、ぐいと惹きつけられ、両目に食い込んできて、こめかみの血管が盛り上がるのを感じました。それから私は、一週間毎日、ホテルからこの男の足元へ通うことになりました。

 この男の足を見た時は、まさに 「心の燃え立つ時」 でした。私は、この男の思想は、この頑健な足から生まれたにちがいないと思いました。そして私も、この男のように砂漠を歩いてみたいと思いました。
 そう思い立ってから直ぐ、私は、ギリシャからイスラエルへ渡りました。イスラエルでは、エルサレム近くのキブツに6ヶ月滞在しました。キブツでは、午前中は仕事をしながら、午後にはどうしたらシナイ半島を歩いて、シナイ山のふもとにあるサンタ・カタリーナ修道院まで辿り着けるのだろうかと思案をめぐらし、その計画を密かに練りました。

 雲一つない青空のもと、砂漠へ踏み出す日、私は、高鳴る心臓の鼓動を感じました。ワディ(涸れ谷)へ一歩足を踏み入れる前に、オレンジの皮をむいて、砂漠に放り投げました。オレンジの皮は、光の中で陶器のかけらのように光って、私の眼を射返しました。
 ただこれだけの光景が、何年経っても、色あせることなく、大切な思い出となって、私の心に刻み込まれているのです。

 そのほか思い起こせば、真珠のネックレスの玉のように、次から次へと心に刻み込まれた思い出が現れてきます。ヨーガ合宿で訪れた数々の場所。屋久島や高野山や熊野古道、インドやネパール、ブータンやチベットやトルコなどなど。思い起こすと懐かしくて楽しかった思い出が、貴重な宝物として、私の心の金庫に大切に保管されています。

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