観覧車

観覧車

 

観覧車よ!
汝は、大空へ鉄骨をさらし、
そのキッチュ(俗悪)なる姿ゆえに、
汝は崇高なのだ!

 

なぜなら、汝は孤独がよく似合うからだ。
孤独と向き合うには、観覧車がよく似合う。
孤独が似合うのは、寺院ではなく、道場ではなく、観覧車なのだ。

 

この観覧車というキッチュな場所が、聖なる場所に変わるのは不思議である。
ただ、キリスト教の奇跡は、多くの場合、カトリックのキッチュ的な部分から生まれているという事実もあるから、不思議ではないのかも知れない。

 

そして、私はふと思い出した。
「神様は、教会には不在で、キオスクにおわします」 とつぶやいたある哲学者の言葉を。

 

人知れず、観覧車に乗る人々は、孤独と向き合う、わけありな人々なのだ。

 

ある女性は、観覧車に乗りながら、頭を下げて、うなだれていた。
また、ある男性は、一点を見つめていて、思いつめている様子だ。
また、ある人は、目を閉じて、口の中でぶつぶつ何かを唱えているようだ。
その中で異質だったのは、高校生4人の仲間が、観覧車の中で笑いはじけていたことである。

 

私は、鹿児島の中央駅の上にある観覧車に乗るために、そっと勇気をふりしぼっていた。

 

思いきって、私は観覧車の前に立った。
「どうぞ」 という係員の若い女性の声に押されて、
私は、無言でお辞儀をする格好で、観覧車の個室に入った。

 

そして私は、床が透明になっていることに気づいた。
足元がおぼつかない。

 

魂が、宙に浮いている感覚があり、拠りどころのない感覚に慣れてくると、
向こうの世界へ半分行ってしまった錯覚に、身震いし、
同時に、私は深い安堵を覚えたのだ。
この奇妙な感覚・・・

 

やがて、ゆっくり、ゆっくりと観覧車は、上に上に登りだしていた。
近くに街並みが見下ろせ、遠くに鹿児島湾が見え、山並みと桜島も見えていた。
その時、私の目の前には、もう一つの世界、砂漠が見えていた。
シナイ半島の砂漠で、一人向き合った日々が、走馬灯のように流れて来た。

 

ああ、孤独で過ごした旅が、何と恐怖で、至福な時だったことだろう。

 

最近知った、105歳の現役女流書道家で墨の抽象画家、篠田桃紅さんは、
人間は孤独でないとダメになってしまうと話していた。
和服で、背筋の伸びたお姿には、孤独な気品があふれていた。

 

孤独は、ある人々には悪く、ある人々には善い。

 

17世紀のオランダの哲学者スピノザは、この世界に、善いも悪いもないという。ただ組み合わせに依って、善悪はあるという。『エチカ』 で、スピノザは、こう述べている。「音楽は憂鬱の人には善く、悲傷の人には悪しく、聾者には善くも悪しくもない」

 

孤独死をしてしまう人には、孤独は悪く、孤独でさらなる高みに登れる人は、孤独は善いものなのだ。

 

私は、インドで牛からもらったインスピレーション、「汝、崇高であれ」を、
孤独な観覧車の中で、反芻していた。

 

観覧車には、孤独がよく似合う。

 

 

望月 勇