2018年9月中旬 トルコの旅 (4)
イスタンブールの不思議なご縁
2018年の7月、イスタンブールへ行く2カ月前でした。英国に住んでいる女性から、日本の担当者を通して以下のメールが届きました。
「私は英国の大学で鍼灸を勉強しました。望月先生の事を夢に見ましてお名前を紙に控えていたのですが、昨日我が家で夕飯を食べた二人の友人が、望月先生のヨガ教室に行かれた事があるというのでびっくりしました。
どうか先生から学ばせて頂きたいです」
彼女は、ロンドンの伝統のある鍼灸の学校を2018年に卒業して、今鍼治療に専念しているとのこと。私が誰だかも知らず夢でみて、友人からヨガの先生であることを知ったこと。それで、是非お会いしたいということで、ロンドンの日曜日のヨガの教室に、鍼灸師の英国人のご主人と一緒に参加されました。彼女は、ヨガ教室に参加されている間、ずっと涙を流していました。
この夢の話をイスタンブールの担当者へ伝えたら、9月のトルコ旅行のガイドをすることになったトルコ人の通訳の女性が、「私も、望月先生を夢でみた。確認したいので写真があったら見せて欲しい」 というので、担当者が私の写真を見せたら、「あっ、この人です」 と言ったので、鳥肌が立ったというのです。
イスタンブールのヨガ教室は人数が増えて、トルコ人たちやキルギス人もヨガをやりたいといって参加してきました。その彼らが、流暢な日本語を話すのでびっくりしました。この人たちは、どこかで輪廻していた時に、前世でお会いしたのかな、と思ったくらい、不思議なご縁を感じました。
沙漠と森林
私は、何回かイスタンブールを訪れているうちに、東洋と西洋の特長は何か、日本人の特長は何かを考えるきっかけになりました。私は、アフリカや中東の多くの国々を旅して感じたことは、ほとんど不毛の大地ばかりで、日本のような森林がない特殊な風土であるということを知りました。
そして私が強く感じたのは、沙漠と森林という風土で、異なった思考や宗教が生まれたということでした。
例えば、私は二十代のころ、シナイ半島を一人で歩いて旅したことがありました。
道はありませんでしたが、アラビア語でワディと呼ばれている涸れ谷を道代わりに歩いていました。すると何日か後に、ワディが二つに分かれている場所に出くわしました。どちらへ行くべきか悩みました。もし水のない方へ行ってしまったら、ひょっとすると干からびて死ぬかもしれないと思い、途方に暮れました。(詳しくは 『青年と沙漠』 講談社出版を参照)
常にそのような状況にある沙漠地帯では、正しいと思う方を確実に決断しなければなりません。沙漠から生まれたユダヤ・キリスト教をバックボーンにしている欧米では、善か悪か、右か左か、イエスかノーか、イスラム教ではコーランか剣か、という思考は、沙漠の風土から生まれていることを、私は身をもって知りました。
一方、緑豊かな日本では、二つの道があっても、生死をかけてどちらの道を選ぶかなど悩みません。どちらの道を選んでも水はあるし、死ぬ恐れはないからです。日本では、どちらでもいいという中途半端な決断でも、許されます。
このことは、ロンドンで道を聞くとよく分かります。聞かれた人は、知らなくても知っているふりをして道を教えてくれるのです。その道を歩いて行くとまったく違った道だったりすることがよくあります。道を聞かれたら知らないと言うことは、悪いと思っているみたいです。これは、沙漠の思考です。
西洋思想と東洋思想
西洋思想―ユダヤ教やキリスト教は、沙漠で生まれた宗教で、一神教です。神がこの世を創造したといいます。聖書では、『始めに言葉があった。言葉は神であった』 といいます。言葉のことを、ロゴスといいます。ロゴスは言語、科学、論理といった理性ですが、論理的で時系列にものごとを考えていきます。このロゴスで考えると、ものごとには出発点があり、終りへ向かって一直線に進み、やがて最後に終末がやってくるということになります。
一方、東洋思想は、この世界は始めも終わりもなく、死んでは生まれて、生まれては死んでいくという 「輪廻転生」 を説きます。植物を見るとよく分かります。死んで土に帰り、土からまた芽を出します。この世界は、円を描いて成立していると考えます。森林から生まれたのが、永遠の世界観です。とくに仏教は、この世界にある万物は、すべて空といいます。空とは、単独では存在できない、すべて繋がっていることで、仏様も万物もいつも一緒に存在しているということです。こういう論理のことをレンマといいます。
レンマは、あらゆる部分が全体につながっていると表現できる理性の働きで、ロゴスとは対象的です。この理性の働きを、古代のギリシア人やインド人は、「レンマ」 と呼びました。
2018年の7月、イスタンブールへ行く2カ月前でした。英国に住んでいる女性から、日本の担当者を通して以下のメールが届きました。
「私は英国の大学で鍼灸を勉強しました。望月先生の事を夢に見ましてお名前を紙に控えていたのですが、昨日我が家で夕飯を食べた二人の友人が、望月先生のヨガ教室に行かれた事があるというのでびっくりしました。
どうか先生から学ばせて頂きたいです」
彼女は、ロンドンの伝統のある鍼灸の学校を2018年に卒業して、今鍼治療に専念しているとのこと。私が誰だかも知らず夢でみて、友人からヨガの先生であることを知ったこと。それで、是非お会いしたいということで、ロンドンの日曜日のヨガの教室に、鍼灸師の英国人のご主人と一緒に参加されました。彼女は、ヨガ教室に参加されている間、ずっと涙を流していました。
この夢の話をイスタンブールの担当者へ伝えたら、9月のトルコ旅行のガイドをすることになったトルコ人の通訳の女性が、「私も、望月先生を夢でみた。確認したいので写真があったら見せて欲しい」 というので、担当者が私の写真を見せたら、「あっ、この人です」 と言ったので、鳥肌が立ったというのです。
イスタンブールのヨガ教室は人数が増えて、トルコ人たちやキルギス人もヨガをやりたいといって参加してきました。その彼らが、流暢な日本語を話すのでびっくりしました。この人たちは、どこかで輪廻していた時に、前世でお会いしたのかな、と思ったくらい、不思議なご縁を感じました。
沙漠と森林
私は、何回かイスタンブールを訪れているうちに、東洋と西洋の特長は何か、日本人の特長は何かを考えるきっかけになりました。私は、アフリカや中東の多くの国々を旅して感じたことは、ほとんど不毛の大地ばかりで、日本のような森林がない特殊な風土であるということを知りました。
そして私が強く感じたのは、沙漠と森林という風土で、異なった思考や宗教が生まれたということでした。
例えば、私は二十代のころ、シナイ半島を一人で歩いて旅したことがありました。
道はありませんでしたが、アラビア語でワディと呼ばれている涸れ谷を道代わりに歩いていました。すると何日か後に、ワディが二つに分かれている場所に出くわしました。どちらへ行くべきか悩みました。もし水のない方へ行ってしまったら、ひょっとすると干からびて死ぬかもしれないと思い、途方に暮れました。(詳しくは 『青年と沙漠』 講談社出版を参照)
常にそのような状況にある沙漠地帯では、正しいと思う方を確実に決断しなければなりません。沙漠から生まれたユダヤ・キリスト教をバックボーンにしている欧米では、善か悪か、右か左か、イエスかノーか、イスラム教ではコーランか剣か、という思考は、沙漠の風土から生まれていることを、私は身をもって知りました。
一方、緑豊かな日本では、二つの道があっても、生死をかけてどちらの道を選ぶかなど悩みません。どちらの道を選んでも水はあるし、死ぬ恐れはないからです。日本では、どちらでもいいという中途半端な決断でも、許されます。
このことは、ロンドンで道を聞くとよく分かります。聞かれた人は、知らなくても知っているふりをして道を教えてくれるのです。その道を歩いて行くとまったく違った道だったりすることがよくあります。道を聞かれたら知らないと言うことは、悪いと思っているみたいです。これは、沙漠の思考です。
西洋思想と東洋思想
西洋思想―ユダヤ教やキリスト教は、沙漠で生まれた宗教で、一神教です。神がこの世を創造したといいます。聖書では、『始めに言葉があった。言葉は神であった』 といいます。言葉のことを、ロゴスといいます。ロゴスは言語、科学、論理といった理性ですが、論理的で時系列にものごとを考えていきます。このロゴスで考えると、ものごとには出発点があり、終りへ向かって一直線に進み、やがて最後に終末がやってくるということになります。
一方、東洋思想は、この世界は始めも終わりもなく、死んでは生まれて、生まれては死んでいくという 「輪廻転生」 を説きます。植物を見るとよく分かります。死んで土に帰り、土からまた芽を出します。この世界は、円を描いて成立していると考えます。森林から生まれたのが、永遠の世界観です。とくに仏教は、この世界にある万物は、すべて空といいます。空とは、単独では存在できない、すべて繋がっていることで、仏様も万物もいつも一緒に存在しているということです。こういう論理のことをレンマといいます。
レンマは、あらゆる部分が全体につながっていると表現できる理性の働きで、ロゴスとは対象的です。この理性の働きを、古代のギリシア人やインド人は、「レンマ」 と呼びました。