人生を豊かに生きるには、母語が不可欠 - 望月勇

人生を豊かに生きるには、母語が不可欠 (3)

 それから著者は、近代日本について検証していきます。明治時代は、欧米の知識を表現する語彙がなかったので、お雇い外国人を招いて学校では英語で授業を始めます。「これからの日本が世界に負けない国づくりをするには、英語を重視しなければならない。初等教育から学校では英語を教授(使用)言語とし、政府機関で用いられる言語も英語にすべきであるーーー。」と初代文部大臣もつとめた森有礼によって、「日本語廃止論」が主張されました。それに対して、外国人から上がったのは、「英語公用語化」反対論や、「母国語を豊かにする」ようにという意見でした。

 それに対して、慶応義塾を立ち上げた福沢諭吉は、一国の言葉は、その国の文化が発展するにしたがって自然に増えていき、また一人ひとりが日本語能力を磨くことによって、日本語は発展していくことを意識して、英語の「公用語化論」は、一刀両断に切って捨てました。そうして、明治の先人たちにより、想像を絶する努力で翻訳が進み、多くの若者が先進国の知識を、原語と格闘するという大きな苦労を経験することなく、学べるようになっていきました。そのため、当時の新聞には、「最近の大学生の外国語力の低下は嘆かわしい」といった、現代でもあるような意見がしばしば掲載されたと言います。それに対して、文豪・夏目漱石は、学生の英語力低下は、「日本の教育が正当な順調で発達した結果」で「当然の事」だと断言しています。続けて漱石は、英語で行っていた明治初期の高等教育は「一種の屈辱」だったとまで言っています。以上のような検証をして、著者は、21世紀の「英語化」は近代日本150年への冒瀆であるといいます。

 次に、著者は、日常の言葉で政治を論じることの大切さ、を主張しますが、その中で私が面白いと思ったのは、「ヘイトスピーチ」の例でした。著者は、法務省が、「ヘイトスピーチ」という英語をそのまま用いたことは望ましくないと考えます。そして、「不当な民族差別発言」、あるいは「憎しみを顕にする発言」「攻撃的発言」といった具合に、日本語で正確に表現するべきだと主張します。そうすれば母国語は、何が問題かを自然に思索に導くことができるといいます。
私も、まったく同感です。朝日新聞社顧問の秋山氏も言っていましたが、若い記者が、「紙面のガバナンス」をどうするかと議論をしていて、その議論の意味がよくつかめないため、みんな頭が働かないというのです。日常生活にしっかり根ざしていない言葉のため、一般の人に考える力をなくしているのが、英語のよそよそしい言葉なのです。

 そして、著者は、英語化が破壊する日本の良さと強みについて検討していきます。
 その中で、私が注目したのは、英語は単なる「ツール(道具)」ではないといっている点です。英語化推進派の主張でよく耳にするのは、「言語はコミュニケーションのツールだ」という言い方です。「英語はツールなのだから、ツールに慣らすために子供に教えるのは早ければ早いほどいい」「ビジネスで世界に打って出るには、英語というツールが必要だ。だから、英語の社内公用語化を早急に進めるべきだ」といった声です。

 それに対して著者が、言語は、単なる「ツール」以上のものであり、使う人の自我のあり方(自己認識)に影響を及ぼし、言語の使い手の世の中の見方全体を変えてしまう可能性がある、と指摘している点です。
そして、英語化で壊されるのもとして、 ①思いやりの道徳と「日本人らしさ」 ②「ものづくり」を支える知的・文化的基盤 ③良質な中間層と小さい知的格差 ④日本語や日本文化に対する自信 ⑤多様な人生の選択肢 を上げています。

1 思いやりの道徳と「日本人らしさ」では、言語学者の鈴木孝夫氏の説を紹介して
います。「日本語を学ぶと、性格が穏和になる」「人との接し方が柔らかくなる」ということが指摘されて、そのことをフランス語で、「タタミゼ(tatamiser)」といい、「日本人っぽくなる」という意味だそうです。鈴木氏は、「日本語、日本文化というのは悪くいえば人間を軟弱にする、よく言えば喧嘩とか対立、対決とかができにくい平和的な人間にしてしまいがち」だと言って、それを「タタミゼ効果」と名づけたというのです。

 このことは、海外に住んでいる私には、よく理解できます。両親が日本人で、兄弟が現地校に行っている子供の母親の話では、家の中では日本語を話しているので、兄弟も日本語で会話しているのが、喧嘩になると突然、英語になってしまうというのです。母親がそのことを聞くと、子供たちは、日本語では喧嘩にならないから、というのですと言っていました。また、確かに、外人で日本語を話し、日本へ留学したことのある人は、日本人っぽくなっています。以前、大手の銀行の支店長さんが、「私の秘書は、ロンドン大学の日本語学科を出て、日本に3年留学した女性で、毎朝、トーストの代わりに卵がけご飯を食べ出社する、日本人以上に日本人です」と笑って話していました。