遥かなる旅―チベットでの「純粋経験」 

遥かなる旅―チベットでの「純粋経験」  (2)

純粋経験とは

 

 以上は、「チベットとネパール思索の旅」のエッセイの一部分ですが、この時の体験をもう少し詳しく述べてみたいと思います。
 私が、頭の中の思考がストップしてしまったという状況において、目の前にある湖は、もはや「湖」という言葉の区分けがありません。「雲」という区分けもありません。きっと禅では、このような状態を、「空」とか「無」とかいうのでしょうか。
 このように言葉以前の世界になると、上記の句は以下に変わります。

 

エメラルド色の湖は、湖であって、湖ではなく、
天空の三つの雲は、雲であって、雲ではなく、
非湖と非雲の二つは、一つに融け合って、ただそのように在る ……

 

 このように「湖」が「湖」でなくなるためには、それを見る私の意識も、私の意識であることをやめるほかありません。湖という客体も、それを意識する主体もなく、湖という言葉の分節は消えて、ただ「非湖」となってしまいます。ここに、言語と実在の、深い関係が見られると思います。

 

 哲学者、池田善明氏によると、西田の「純粋経験」は、主客が分かれる前のところでそれらが「一つになる」、その経験のことを言っているので、言い換えれば、自然の「真の実在」を文字通り真の実在として、そのまま思慮分別を加えることなく経験することだと言います。

 

 

ヨーガと純粋経験

 

 ところで、ヨーガと純粋経験は、どんな関係にあるのでしょうか。
 古来からインドでは、宇宙意識(神)、真我(プルシャ)へ向かうには、心の働きを死滅させることであると言われてきました。宇宙意識(神)を見出すためには、意識の中に、言葉もイメージも出て来ないように、完璧に静寂にすることだというのです。
 ですからヨーガは、その言葉(心の働き)を死滅させる技法なのです。ヨーガでは、非常に平静で、言葉もイメージも存在しない意識状態にある人は、宇宙(神)と同調しているというのです。この点において、言葉以前の世界である西田の「純粋経験」は、ヨーガの目指すところと共通している点があるのです。
 ところが、現代では、純粋経験やヨーガの目指す世界とは、正反対に展開しているのです。つまり現代の科学も主観主義も、すべてロゴス(言葉、論理)に束縛されてしまっています。そこで人間が、ロゴスに束縛さてしまった歴史をみてみることにします。

 

 

自然(ピュシス)と言葉(ロゴス)

 

 私たちは、普通に主観(考える自己)と客観(対象である事物)、精神と物質、心と物というふうに二つに分けて考えます。この考え方は、実はデカルトの二元論から来ています。
 17世紀のフランスの哲学者、ルネ・デカルトは、「われ思う、ゆえにわれあり」といいました。すべてを疑うことはできても、自分が思うことだけは、疑えない。私が思わなければ、私は存在しないので、心と身体は区別されて離れていると物心二元論を唱えたのです。
 そうして、デカルトの二元論が人々の思考を支配して、ここに近代科学の二元論と近代主観主義が始まったのです。

 

 そして、この精神と物質をすっぱりと分けて考える「明晰判明性」のもとで、近代科学が進歩していくのですが、同時に現代人はこの考えのために苦しんでいることも事実なのです。
 私たちが生きて行く時に、心の中にもやもやとした考えや、相反する二つの考えに悩むことがあります。しかし、二元性のもとでは、明晰なものが正しくて、中途半端や相反するものは、悪いものとして切り捨てられてきました。
 近代主観主義のもとでは、人より多くのモノを勝ち得た人が称賛され、現実の社会を動かす発言権や決定権を持っている人が偉いとされます。個人が、自己利益中心の社会のシステムを構築し、己さえよければ、といった主体性優位の現れは、近代主観主義に拠るものです。
 科学の「客観的な真理」と思われていたものでも、実は主観性(人間中心主義)に過ぎなかったのです。そして、主観主義では、自我が自然を支配し、人間の為に利用することが、人間解放であると思われてきました。近代主観主義とは、「主体」のことで、その主体は欲望であり、本来は同時に欲望を抑制する主体でもなければならないのです。

 

 実は、このデカルトのような物心二元論は、もっと古い時代、古代ギリシャの哲学から始まっています。
 今から二千数百年前、ギリシャのイオニアという地に、ヘラクレイトスという人物が現れ、「万物は流転する」といいました。彼は、「相反するものの中に美しい調和がある」と説きました。そして、この世界の真の存在は、自然(ピュシス)であると主張したのです。
 それに対して、この世は、ロゴス(言葉、理性、理論)でできていると主張する人たちがいました。ソクラテスやプラトンやピタゴラスなどです。
 もともと自然(ピュシス)の中には、ロゴス(言葉、理論)もあったのですが、ヘラクレイトスの「相反するものの中に美しい調和がある」という矛盾する言葉は、なかなか理解されませんでした。むしろ人間のロゴスという性格は、矛盾なく整合性を持った思考であるために、矛盾のない数学的な理念世界の人々、ソクラテスやプラトンやピタゴラスのような哲学者によって主流になって行きました。そして、その流れの中から、中世にデカルトが、近世にドイツの哲学者、カントがでてくることになるのです。