遥かなる旅―チベットでの「純粋経験」 

遥かなる旅―チベットでの「純粋経験」  (5)

自己の内側へ目を向ける

 

 西田の内観は、自己が自己の内側を見て行く過程において、自己の内にある予想不可能な意識の、果てしない深淵に分け入り、自己の根源にまで立ち入って行くことです。それは、言葉やイメージで対象化できない自己の内にある「無」に向かい、何処までも深く内省していくことなのです。
 これは、ヨーガの修行にも共通しています。言葉は、私たちを知らない間に束縛しています。世界の人種が持っている言語も、それぞれの多種多様な言語が、彼らを束縛します。また言葉は、それを使う人にも、無意識に束縛しています。正に人間は、言葉の奴隷になっているともいえます。
 例えば、疲れていなくても、「疲れた」 という人は、その言葉に束縛されて本当に疲れてしまいます。また何かあったときに、口癖で、「もうダメかもしれない」 という人は、本当にダメになってしまいます。
 西田のいうように、言葉はすべて翻訳であり、符号でしかないのです。その言葉を剥がして、「物自身になって物を見る」のでなければ、本当の実在を知ることはできないという西田の考え方に、私は大いに共感できます。

 

 

癒すということ

 

 特に、私のような施術をする者には、どうしてもロゴスで相手を見て理解してしまうクセがついています。すると無意識に施術をする自分が上で、される人が下という構図になってしまいます。こういう立場で施術をしても、本当の意味での治癒は起こらないということを、私は施術を始めてからだんだん気づいて来ました。

 

 例えば、ある男性が、仕事のことで悩み、将来の不安に心配があり、仕事も生活も行き詰っています。こういう人に、上から目線で施術しても、ほとんど変化が起きないのです。
 まず、生身の人間は、日々、揺らいでいます、それが普通であること、気持ちが日々揺れ動いて当たり前、そのことに罪悪感を持つ必要はないことを理解してもらいます。同時に、自分も日々揺らぎの中にいることを自覚します。西田の「矛盾的自己同一」です。
 私は患者さんを包みつつ、私は患者さんに包まれているのです。すると、その人は安心して深いリラックスに入り、やがて剥がれた言葉の下にある言葉以前の世界を、無意識に感じるのです。それは、鎮静化していた潜在意識に、ある力を呼び覚ますようです。
 その時、彼は、自分でも思いがけない怒りが、心の深い闇から、突然に込み上げてくるのを感じました。その怒りは、大きくて、深くて、消え去るのに3日間かかりました。その間、大変に苦しんだというのです。ところが、その怒りが消え去ったら、本当に心が楽になり、体調もよくなって自然に人間関係も仕事も改善したとのことでした。

 

 またある男性から、ちょうどチベットに滞在している時に、メールが届きました。
 そのメールでは、20年近く前に、ロンドンで私の気功の施術を受け、私のヨーガ教室にも参加したことがあるといいます。長らく私の連絡先が分からなかったが、最近ようやくインターネットの公式サイトを見つけてメールしたというのです。
 彼は、アメリカの理工系の大学を卒業して、ロンドンの理系の会社へ就職したのでしたが、1年でクビになったというのです。大変に落ち込んで、自分をどうしょうもない人間だと責めていました。その時、私が、「あなたの道は、もう決まっています。その道をただ進むだけです」 と言ってくれたのだそうです。その為、他の会社へ就職できて、そこで業績を上げて、今、自分が発明した機械をもとに、定年になる前に起業することになりましたと、そんな内容のお礼のメールでした。
 実は、私は、本当に申し訳ないのですが、彼のことはまったく覚えていませんでした。ただメールを拝読したことで、かすかに記憶がよみがえってきました。当時、気落ちした彼の姿を共有したことで、彼との境界の領域に触れることができたという思い出が、なつかしく立ち現れてきました。
それは、西田哲学的に言い換えれば、「彼は私に包まれつつ、彼は私を包んでいる」、ということなのです。
 そのような状態になれたから、言葉以前の無意識の中から、「あなたの道は、もう決まっています。その道をただ進むだけです」 という言葉となって出てきたのです。これは、私がロゴスで言ったのではないのです。それだけは、確かでした。

 

 以上のように、チベットから西田哲学に触れることができて、多くの気づきをいただけました。今、私は、真の客観的世界は、「包みつつ包まれる」 という西田哲学の中にあると確信しています。

 

 

チベットから帰って思ったこと

 

 私は、全宇宙に包まれつつ、私は、全宇宙を包んでいる。
 (私の心は、全宇宙を包んでいるから)

 

 大海は、白波を包みつつ、大海は、白波に包まれている。
 (白波の海水の一滴は、大海の海水の一滴と同じだから)

 

 「わたしが父の内におり、あなたがわたしの内におり、わたしもあなたの内にいる」(ヨハネによる福音書14章)

 

 瞑想で自己が消えてなくなっても、亡くなった世界を見ることができるのは、自己が宇宙意識に包まれつつ、宇宙意識を包むから。

 

 

望月 勇