遥かなる旅―チベットでの「純粋経験」 (3)
西田幾多郎の哲学
以上のような哲学の流れの中で、現代に西田幾多郎が現れます。
彼は、西洋哲学や西洋科学は、ソクラテスやプラトンやピタゴラスなどから言葉(ロゴス)によって分節化されてしまっていて、本来の実在である自然とはかけ離れてしまっていると考えたのでした。
そして彼は、ロゴスでは、本当の自然(真の存在)を知ることができないことに気が付き、「純粋経験」によって、自然本来のあり方をとらえようとする立場から、「ピュシスの世界に還れ」といって、独自の考えを深めていきました。
実は、このピュシスの世界に還らなければならないことに気づいた人が、もう一人いました。20世紀のドイツ人の哲学者、マルティン・ハイデガーです。彼は、ギリシャ以来、「真の存在はピュシスの中にあった」と指摘しました。そして、長い間、人間が存在を忘れてきたことを、「存在の忘却」と表現して、存在論を唱えました。
人間は、悩んで、もうダメだ、他に道はないと否定的になります。これを西田は、「絶対的自己否定」といいます。しかし、身体における生存行為は、同時に、まあ何とかなる、大丈夫という気持ちを持ったりして、肯定的になります。これを、「絶対的自己肯定」といいます。そしてこの否定すると同時に肯定することを、「矛盾的自己同一」といい、この論理が、西田哲学の中核になります。この考えは、ヘラクレイトスのピュシス(自然)では、「相反するものの中に美しい調和がある」という表現になります。
この異なるものの同時性は、絶対的な矛盾関係にありながら「一つ」となる行為です。西田のこの表現を、池田善昭氏は、「包みつつ包まれる」 「包まれつつ包む」 と考案して表現しました。
どういう意味かと言いますと、氏はこれを、樹木にたとえて上手く説明します。環境は樹木を包んでいるが、反対に、環境は樹木に包まれている。樹木を切って見ると分かるが、木の年輪は最近の年輪学で、その年代の放射線から台風など気候の変動まで、すべてを記録している。まさに樹木は環境に包まれつつ環境を包んでいるのである、というふうに「包みつつ包まれる」を表現するのです。
また、西田は、「併し出来事がその瞬間瞬間に消え去るものならば、記憶といふものの成立し様はない。そこには一瞬一瞬に消え去ると共に、消え去らざるものがなければならない、記憶の底には 『永遠の今』 という如き直覚がなければならない」と述べ、過去・未来が今に同時に存在する、その今を、西田は、「永遠の今」 と呼びます。
私たちは自然に流れている川を見る時、目の前の川の水は、瞬間瞬間止まっています。それは時刻で見ているからです。時刻の背後にある時間で見ると、川は切れ目なく流れています。この瞬間(今)の水も、上流(過去)の水とも、また下流(未来)の水とも、切れ目なくつながっています。
同様に、過去・未来の時の流れの中での「現在」とは、その時の流れの中に包まれつつ、区切れなく、その流れを包み、そうして過去・現在・未来が同時に存在するのです。その流れを、不連続の連続ともいいます。
西田は、またこのようにも言っています。
「物には二つの見方がある。」と。一つは、物を外から見る方法で、見方も無数にあり、物を他との関係上から見る方法です。
「即ち、分析の方法である。分析ということは、物を他物に由って言い表すことで、この見方はすべて翻訳である。符号Symbolによって言い表すのである。」 続けて、
「然るに、もう一つの見方は、物を内から見るのである。ここには着眼点などというものは少しもない、物自身になって物を見るのである、即ち直感Intuitionである。」
この西田の考え方は、デカルトと正反対です。デカルトは、自分自身さえ認識の対象として、そとから見ることしかしてこなかったので、したがって西洋近代科学は物を外から対象として見る限り、「主観性の原理」でしかなかったのです。