2018年9月中旬 トルコの旅 (6)
日本人とインド人と中国人の感性の違い
こういう日本人の特性を見て行くと、植物や自然に対する感じ方が、インド人や中国人と違っているのではないかと思われるのです。
宗教史学者の中沢新一氏によれば、インドや中国の仏教では、生物を人間と人間でないものというふうに分類しないで、「有情=意識をもったもの」と「非情=意識のないもの」というふうに分類するのだそうです。そうすると、人間と動物は 「有情」 で、植物は 「非情」 に分類されることになります。これが、ベジタリアンが植物を食べてもいい根拠になっているのだそうです。
日本では昔から樵(きこり)たちは、木を切る前に動物と同じように植物の霊の慰霊をしました。(アメリカインディアンもそうかもしれません) その日本へ仏教が伝来すると、日本人は、「アニミズム」の思考原理で、「草木悉皆成仏(植物はすべて仏になりうる)」といって、植物を「有情」に組み替えてしまいました。
日本は、明治時代に近代化の過程で、ロゴスの論理を土台にして、自然と文化を分離する西洋の波を受けます。そして、ほとんどの日本人が無造作に西洋文化を崇拝する中で、レンマの心を持つ人たちは、人間の利益だけの思考や人為的プログラムだけでつくられる新しいロゴスの世界に当惑し、苦しみました。この自然と文化を分離する西洋に根強く抵抗して、日本人は日本人らしく生きるべきだと主張したのが、夏目漱石でした。
そして、もう一人、西欧のロゴスを深く理解しながら、近代の 「自然」 に真っ向から挑戦した人物がいました。南方熊楠です。
南方熊楠は、途方もない博覧強記で、西欧のロゴスを完全にマスターして、大英博物館の職員になり、数々の注目すべき論文を一流の科学雑誌『ネイチャー』に発表し、粘菌学者として高い評価を得ていました。そして、ある学者と論争をしてやり込めたことが原因で、博物館を追い出されてしまいます。
彼は、西欧の自然科学が、ロゴスの体系をもとにしていることに強い違和感を覚え、故郷の和歌山へ戻り、那智の山中に籠って、粘菌の採集と研究を始めます。
熊楠は、粘菌の観察と研究により、この世界はロゴスでは説明がつかないことを感じていました。粘菌は、湿気の多い時に、アメーバとなって古木の肌を捕食しながら移動します。乾燥期になると植物のようになり、胞子を空中に飛散させます。このように生命現象では、生と死を分類できないことを認識していました。そして、生命現象は、ロゴスでは解明できないこと、仏教でいう生でもなく死でもない、不生不滅こそが実相であるという、レンマの理解に達していきました。そうして、表面に見える顕在性は、目に見えない潜在性と、あらゆるものが多様につながりあい、分岐や切断や再結合をおこなっているという 「南方曼荼羅」 と呼ばれることになる図をつくりました。
日本とインドと中国の 「自然」 の違い
このように日本人は、緑豊かな大自然の中で、独特な感性を持っていましたが、中沢氏によると、もともと仏教には、「自然」 という言葉は、使用禁止になっていたそうです。仏教では、この世界をすべて「縁(relation)」としてとらえ、実体がないという教えですので、人間の外にある自然を、「自然」 という自律的な実態として認めることは許されなかったというのです。
ギリシア語には、「自然(ピュシス)」という言葉があり、ラテン語にもnaturaという言葉がありますが、日本語にはもともと 「自然」 という言葉がなかったといいます。そして、日本語の自然という 「言葉」 は、中国語に訳された仏教のテキストから入って来たそうです。
中国では、土着的な思考体系である道教がありました。中国仏教では、インド仏教の 「自発的に」 生起してくる存在を、どうしても 「自然」 と訳さないではいられなかったというのです。道教では、人間の外に客観的に存在する 「天然自然」 と、言葉によらない 「自由な状態にある心」 の二つの自然(無為自然)があったので、中国人は インド仏教の 「自発的に」 を 「自然」 という言葉に翻訳をしたのだそうです。これによって、「外的自然」 と 「脳内自然」 という思考が可能になったと中沢氏はいいます。
これは、インド仏教からしたら明らかに逸脱ですが、自然をこよなく愛してきた日本人は、自分たちの思考を表現する道具として、この 「自然」 という言葉を自由に使って表現してきました。中でも、俳句などはレンマの文学の最たるものです。
例えば、江戸時代に芭蕉の俳句があります。
「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」
これを、中沢氏流に説明すると、蝉の声(外的自然)が、人間の脳に 「自然状態」 を誘発し、「外的自然」 と 「脳内自然」 との共鳴が発生して、静寂のなかに蝉の声が岩にしみ入っていく 「大いなる自然」 が浮かび上がってきます。
言いかえれば、日本人は、この 「大いなる自然」 をいかに表現するかに心をくだいてきたといえます。そして中沢氏は、この 「大いなる自然」 が日本人にとっての 「神」 であったというのです。
最後に、インド仏教から中国仏教へ、中国仏教から日本仏教へ、オリジナルなブッダの教えが、それぞれの国の特長によって、いかにして変遷したかを書こうと思いましたが、今回は割愛します。
こういう日本人の特性を見て行くと、植物や自然に対する感じ方が、インド人や中国人と違っているのではないかと思われるのです。
宗教史学者の中沢新一氏によれば、インドや中国の仏教では、生物を人間と人間でないものというふうに分類しないで、「有情=意識をもったもの」と「非情=意識のないもの」というふうに分類するのだそうです。そうすると、人間と動物は 「有情」 で、植物は 「非情」 に分類されることになります。これが、ベジタリアンが植物を食べてもいい根拠になっているのだそうです。
日本では昔から樵(きこり)たちは、木を切る前に動物と同じように植物の霊の慰霊をしました。(アメリカインディアンもそうかもしれません) その日本へ仏教が伝来すると、日本人は、「アニミズム」の思考原理で、「草木悉皆成仏(植物はすべて仏になりうる)」といって、植物を「有情」に組み替えてしまいました。
日本は、明治時代に近代化の過程で、ロゴスの論理を土台にして、自然と文化を分離する西洋の波を受けます。そして、ほとんどの日本人が無造作に西洋文化を崇拝する中で、レンマの心を持つ人たちは、人間の利益だけの思考や人為的プログラムだけでつくられる新しいロゴスの世界に当惑し、苦しみました。この自然と文化を分離する西洋に根強く抵抗して、日本人は日本人らしく生きるべきだと主張したのが、夏目漱石でした。
そして、もう一人、西欧のロゴスを深く理解しながら、近代の 「自然」 に真っ向から挑戦した人物がいました。南方熊楠です。
南方熊楠は、途方もない博覧強記で、西欧のロゴスを完全にマスターして、大英博物館の職員になり、数々の注目すべき論文を一流の科学雑誌『ネイチャー』に発表し、粘菌学者として高い評価を得ていました。そして、ある学者と論争をしてやり込めたことが原因で、博物館を追い出されてしまいます。
彼は、西欧の自然科学が、ロゴスの体系をもとにしていることに強い違和感を覚え、故郷の和歌山へ戻り、那智の山中に籠って、粘菌の採集と研究を始めます。
熊楠は、粘菌の観察と研究により、この世界はロゴスでは説明がつかないことを感じていました。粘菌は、湿気の多い時に、アメーバとなって古木の肌を捕食しながら移動します。乾燥期になると植物のようになり、胞子を空中に飛散させます。このように生命現象では、生と死を分類できないことを認識していました。そして、生命現象は、ロゴスでは解明できないこと、仏教でいう生でもなく死でもない、不生不滅こそが実相であるという、レンマの理解に達していきました。そうして、表面に見える顕在性は、目に見えない潜在性と、あらゆるものが多様につながりあい、分岐や切断や再結合をおこなっているという 「南方曼荼羅」 と呼ばれることになる図をつくりました。
日本とインドと中国の 「自然」 の違い
このように日本人は、緑豊かな大自然の中で、独特な感性を持っていましたが、中沢氏によると、もともと仏教には、「自然」 という言葉は、使用禁止になっていたそうです。仏教では、この世界をすべて「縁(relation)」としてとらえ、実体がないという教えですので、人間の外にある自然を、「自然」 という自律的な実態として認めることは許されなかったというのです。
ギリシア語には、「自然(ピュシス)」という言葉があり、ラテン語にもnaturaという言葉がありますが、日本語にはもともと 「自然」 という言葉がなかったといいます。そして、日本語の自然という 「言葉」 は、中国語に訳された仏教のテキストから入って来たそうです。
中国では、土着的な思考体系である道教がありました。中国仏教では、インド仏教の 「自発的に」 生起してくる存在を、どうしても 「自然」 と訳さないではいられなかったというのです。道教では、人間の外に客観的に存在する 「天然自然」 と、言葉によらない 「自由な状態にある心」 の二つの自然(無為自然)があったので、中国人は インド仏教の 「自発的に」 を 「自然」 という言葉に翻訳をしたのだそうです。これによって、「外的自然」 と 「脳内自然」 という思考が可能になったと中沢氏はいいます。
これは、インド仏教からしたら明らかに逸脱ですが、自然をこよなく愛してきた日本人は、自分たちの思考を表現する道具として、この 「自然」 という言葉を自由に使って表現してきました。中でも、俳句などはレンマの文学の最たるものです。
例えば、江戸時代に芭蕉の俳句があります。
「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」
これを、中沢氏流に説明すると、蝉の声(外的自然)が、人間の脳に 「自然状態」 を誘発し、「外的自然」 と 「脳内自然」 との共鳴が発生して、静寂のなかに蝉の声が岩にしみ入っていく 「大いなる自然」 が浮かび上がってきます。
言いかえれば、日本人は、この 「大いなる自然」 をいかに表現するかに心をくだいてきたといえます。そして中沢氏は、この 「大いなる自然」 が日本人にとっての 「神」 であったというのです。
最後に、インド仏教から中国仏教へ、中国仏教から日本仏教へ、オリジナルなブッダの教えが、それぞれの国の特長によって、いかにして変遷したかを書こうと思いましたが、今回は割愛します。
2019年4月22日 望月 勇