2019年 高野山と熊野古道 (4)
この廃仏毀釈運動で、私は40年以上も前のことを思い出した。
20代の頃、ロンドンにいた私は、ロンドンの世界的に有名なデパート、リバティを思い出したのだ。リバティプリントで人気のあるお店に、当時デパートの歴史を書いた小冊子があり、その中に、デパートの初めの頃、明治時代、日本から廃棄された仏像、仏具などのゴミの山を二束三文で買い取って、船でロンドンへ持ち帰ったということが記されていた。
ロンドンのお店には、日本人のスタッフが数名いて、仏像や仏具を修理したという。その中に、MR HARA KITSUI という名前があった。私は、この当時、日本人は簡単に外国へ行くことができないので、この日本人スタッフは元は漁師で、船が難破したのを助けられてロンドンに来たのではないかと想像した。その当時の漁師には恐らく苗字はないので、「ハラ キツイ」 は、「原吉」 ではないかと推察した。そのことを、本の著者へ手紙を書いて尋ねてみた。すると、社では日本人スタッフについては、何も分かりませんと丁寧な返事がきた。私に分かったことは、リバティは、廃仏毀釈によって莫大な利益を得ていたということだけであった。
青岸渡寺と熊野那智大社を参拝後、熊野古道を大門坂へ下って行った。樹齢800年の杉や楠の巨木のある杉並木は、鬱蒼として緑のトンネルの中を歩いているようだった。
これらの巨木の並木は、明治政府によって「神社合祀」が進められ、伐採される運命にあり、その危機を救ったのが、世界的に有名な粘菌学者、南方熊楠であった。熊楠の気違いじみた抵抗がなかったら、巨木の並木もなく、世界遺産もなかったのだ。その大門坂の入り口に、熊楠が住んでいたという旅館が当時のままにひっそりと残っていた。熊楠は、ここから熊野の森にはいり、粘菌や植物を収集し、研究に没頭していたのだ。
夕方、白浜温泉のホテルで、ヨガをした。疲れはなかった。前に広がる海の水平線は広くて、地球の丸みを感じるようだった。そうして、水平線へオレンジ色の太陽が、刻一刻と沈んでいく模様が、何とも平安をもたらしてくれた。
その夜は、満月であった。不思議なことに、私の旅は、満月に当たることが多い。
翌朝、ホテルでヨガを行い、「南方熊楠記念館」へ出かける。
記念館は、珍しい植物の繁茂する中にあり、建物もユニークであった。館長の谷脇幹雄氏が説明に当たってくれた。谷脇氏がご自分でおっしゃるには、熊楠と同じ高校をでて、ずっと熊楠の追っかけをして、今の館長になっているそうである。氏がいうには、熊楠の記念館に熱心に来る熊楠の追っかけは、みんな変な人たちであるという。そして、一言ぽつりと言った。「熊楠は、アスペルガーでした」
記念館の屋上へでた。館長の説明が続いた。「向こうに見えるのは、『神島(こうじま)』です。神島に昭和天皇がお越しになり、熊楠がご案内し、その後、軍艦長門へ移り、御進講されました」
南方熊楠は、西欧のロゴス(論理)を深く理解しながら、近代の 「自然」 に真っ向から挑戦した人物であった。
熊楠は、途方もない博覧強記で、西欧のロゴスを完全にマスターして、大英博物館の職員になり、数々の注目すべき論文を一流の科学雑誌 『ネイチャー』 に60以上も発表し、まだ日本人でその数を上回った人はいないという。粘菌学者として高い評価を得ていたが、ある学者と論争をしてやり込めたことが原因で、博物館を追い出されてしまうはめになるのである。
彼は、西欧の自然科学が、ロゴスの体系をもとにしていることに強い違和感を覚え、故郷の和歌山へ戻り、那智の山中に籠って、粘菌の採集と研究を始めるのであった。
熊楠は、粘菌の観察と研究により、この世界はロゴスでは説明がつかないことを感じていたのだ。粘菌は、湿気の多い時に、アメーバとなって古木の肌を捕食しながら移動し、乾燥期になると植物のようになり、胞子を空中に飛散させる。このように彼は、生命現象では、生と死を分類できないことを認識していたのだ。そして、生命現象は、ロゴスでは解明できないこと、仏教でいう生でもなく死でもない、不生不滅こそが実相であるという、レンマの理解に達していったのであった。そうして、表面に見える顕在性は、目に見えない潜在性と、あらゆるものが多様につながりあい、分岐や切断や再結合をおこなっているという 「南方曼荼羅」 と呼ばれることになる図をつくることになるのである。
今、熊野古道と「南方熊楠記念館」を訪れて、ひとしお熊野の奥深さを感じずにはおられない気分である。
2019年7月14日 望月 勇