生きて死んで、そして魂のゆくえ

人生100年、老いと死について考える 1


 先日、95歳の男性から、もういつ死ぬか分からないので、普段どういう心持ちでいればいいのか教えてください、と言われました。
 この人は、私の所に気功施術を受けにきたのです。頭脳明晰で大変な博識家ですが、腰痛と胃腸・心臓の不調と鼻炎に悩まされていました。施術を受けると楽になるので、私が東京に来ると必ずやってきます。
 この人は動作はゆっくりですが、頭ははっきりとしてご自身で身の回りのことが全部でき、15分位は休まずに歩けるようです。10年くらい前から奥様が認知症になり、自宅で介護をしていたそうですが体力や気力もなくなったので、最近可哀想だと思いながら奥様を施設に入れたそうです。今奥様は肺がんになって治療をうけているようです。「家内のことを思うと悲しくて、残される娘のことを思うと心配でなりません」 と話します。

 この男性に接していていろいろなことを考えさせられました。私ももうすぐ77歳になりますので、まず長生きをするということは、自分も一歩一歩死に近づいていることや、また老いや病ということも自覚しました。そしてこの人生とは一体何だろうということを考えざるを得なくなりました。
 私は、確かにこの世に生まれました。しかし生まれたという実体験がありません。私の誕生は、後から親を介して知られるだけのものです。産む母親も、思い通りの子を産むことはできません。生まれる私も、自分の才能や容貌や誕生日などすべて自分の意志に関係なくこの世に生まれたのです。
 そして生まれた瞬間から、必ず死ぬことが決まっているのです。それに自死以外は、いつ死ぬかも分かりません。死んだ後はどうなるかもまったく分かりません。何も分からなくて生まれて、何も分からなくて死んでいく、その間が、私たちの人生なのです。

 動物たちには賢い知能が備わっています。生まれて間もなく自立して成長し、やがて子孫を残して、何事もなく死んでいきます。
 しかし私たち人間には知能のほかに、動物と違って知性があります。知能は、答えのある問いを早く正確に答えを出す能力です。知性は、答えのない問いを問い続ける力です。人間はただ生まれて、従容として死んでいくだけでは満足できない存在なのです。
 そこで仏教やキリスト教やイスラム教などの宗教が興ってきたのです。あるいは生きる意味を考える哲学や心理学や心理療法などが現れたのです。

 私は95歳の男性から、「いつ死ぬか分からないので、どういう心持ちでいればいいのでしょうか?」 と問われたときに、若輩の私自身に問われているようでした。
 そんな時、雑誌 「ニュートン」 の 「不死のサイエンス」 の記事に目がとまりました。「老化にいどむ最先端の研究と未来の人体」 とあり、「若返りの賞金レース、10年以上の若返りに、賞金150億円!科学者が本気でいどみはじめた、不老不死」 という内容でした。
 私は 「若返り」 や 「不老不死」 に何となく違和感を覚えました。そうして考えをめぐらしている内に、これはきっとキリスト教文明から来ているのではないかという思いに至りました。

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