コロナ禍の自粛生活で、想念を検証する

コロナ禍の自粛生活で、想念を検証する 4


自分を愛すること

 自分を責めることは、宇宙を責めることであり、宇宙の流れに反抗することです。自分を責めてもうまくいかないのは当然なのです。そこで視点を変えて、自分を責めることができるのなら、許すこともできるはずだと考えてください。
 自分の心をよく見ると、意地悪な自分もいるし、親切な自分もいます。ずるい自分もいるし、正直な自分もいます。くだらない自分もいるし、崇高な自分もいます。人間は多様な側面を持って生きていて、しかも一人の人間です。聖者でも、私たちと同じような様々な心をもっています。ただ聖者は、崇高な一つの自分にいつもフォーカスしているのです。
 もし自分がくだらない人間と思っても、それも自分の一部分であり、宇宙の一部分であると思って、くだらない自分を許して受け入れるのです。一方、崇高な自分もいますから、心から崇高な自分を信頼し、すべてをゆだねられるようになることです。その行為が、「自分を愛すること」 になるのです。

 私たちは、どうしても自分を愛するというと、利己的だと思ってしまいます。しかし、私はヨーガを実践して、本当の自分でいるということは、愛の存在でいることであり、愛には二元性はないと気がつきました。自分を愛することは、他人を愛することであり、利己的ではありえないということを知りました。
 私は、すべての思い込みや執着を手放し(実はこれが大変に難しいのですが)、ありのままの自分を受け入れる状態にある時、宇宙エネルギーが自然に自分の中に流れ込んでくることを知りました。それができれば、どんな病気でも癒されるのです。


ある体験

 私に、そのように思わせた事件がありました。身体の異変に気がついた私は、40年ぶりに病院へ行き、入院するはめになりました。MRI検査の結果、脳梗塞でした。その前日の夕方、私は病室の片隅のベッドに座っていた時でした。唇がしびれているような、冷たい感覚のした後、突然、左手が動かなくなりました。左足も動きません。右手で触ってみると冷たくて、感覚がなく、まるで他人のようでした。
 私は、突然の恐怖で冷や汗を感じ、コール・ボタンを押して看護師を呼ぼうとしました。半身不随になってしまう不運をなげいて、泣きたくなりました。がその時なぜか私は、瞑想をしようと思いました。自分の恐れの感情を封じ込めたり、自分の気持ちと闘うのではなく、瞑想して受け入れる方がよいと思ったのです。

 私は誰も呼ばずに、瞑想を始めました。
 判断せずに、起きてしまったことを受け入れるという行為は、自分を責めるのではなく、自分を許し、「自分は守られているから大丈夫」 と自分に優しくすることでした。まさに自分への愛の行為です。それは宇宙の慈悲の心であるのかもしれません。それは自分の不安を手放し、宇宙エネルギーが自然に自分の中を流れる状態にする行為だったのです。

 どれくらい瞑想をしていたか分かりません。身体をめぐる心地よい気の流れを感じて、自然に目があきました。
恐る恐る左手、左足を動かしてみました。動いたのです。感謝の念が込み上げてきました。私は、宇宙の無限の力に生かされているのだと思いました。この時、宇宙は自分の中に存在し、私が内側で体験したことは、肉体に実現することを、私は身を持って学びました。

<<前ページ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 次ページ>>