観覧車

観覧車の感想文

ある読者から 「観覧車」 の感想文をいただきました。
この感想文は、とてもよく私の言いたいことを理解し、代弁して下さっていますので、著者の了解を得て、匿名で載せることにしました。
皆様がお読みになり、「観覧車」 の詩をより深くご理解してくだされば幸いです。

 

 

望月 勇

望月勇先生の「観覧車」を読んで。。。

 望月先生の詩は、不思議と静かに強烈なインパクトを残されますね。今月「観覧車」を拝読させて頂きまして以来、幾度となく、日常生活の中で私の脳裏に、あの巨大でシュールな観覧車が現れ、ゆっくりと何か大切なメッセージを私の深層意識に訴えるかのように回り出すのです。。。!

 

 一般的に人は観覧車を見ても、それはただのアトラクションであったり、デート・コース程度にしか捉えていませんよね。なので、この詩で望月先生の達眼にハッとさせられるのと同時に、通常見えない神秘的で、霊的な世界を垣間見させられたような、一種の不安に近い恐れさえも感じてしまうのです。

 

 望月先生は、観覧車は、この世の景色の中ではとんでもなく巨大で、ミス・マッチな生き物かのように描写されていますね。でもその「鉄骨をさらし」ている大胆過ぎる存在を逆に、「そのキッチュ(俗悪)なる姿ゆえに、汝は崇高なのだ!」と、賞賛され、どこかで憧憬の念を持たれ、愛着さえ抱かれていることがユーモラスに伝わってきます。「キッチュ」と言う表現が軽いのに、同時に色々なエネルギーが深くこもっているようでもあり、なかなか独特で面白いです。

 

 凡人の私自身のとても個人的な解釈になってしまい、感想文に失礼があっては本当に申し訳ないのですが、この詩を読み返す度に、もしかして観覧車は望月先生ご自身をこの世で具現化した存在なのかなとも思うのです。望月先生の特別過ぎる存在こそが、この俗世界ではミスマッチであり、同時に最も必要とされ尊いのです。。。!望月先生が観覧車と同一化されていると、私が感じた部分はこちらです:「魂が、宙に浮いている感覚があり。。。向こうの世界へ半分行ってしまった錯覚に、身震いし、同時に、私は深い安堵を覚えたのだ。この奇妙な感覚。。。」。

 

 逆に望月先生からされると、ただのアトラクションとして観覧車の中ではしゃいでいた高校生達の方が「異質」でキッチュなのではとも感じました。一般の人々が普段何も感じず、見ず、生活していること自体がとても異様であっても不思議ではありません。何故ならば、普通の人が暮らしている次元とは全く別次元に望月先生はいらっしゃるからです。でも実際、望月先生は色々な次元を自由に行き来できるのだと思いますが。。。!

 

 私自身は巨大な観覧車を見上げると、どこか不気味で不安になりますし、また、観覧車に乗っても安堵感を得られるようなレベルにはおりません。浮遊すると、もっと不安になってしまうかも知れません。父を亡くしてしまって以来、もっと依存心が強くなってしまったようにも感じます。情けないことですが、時々恐怖に陥ります。私は人生と言う大きな歯車がゆっくりと舞う観覧車に乗せられたままの、愚かしい乗客なのかも知れません。人生の舵を取ることを恐れ、現状がずっと何とか維持できるとよいな。。。と、甘えながらグルグルと回っているのです。もしかして、あの無邪気な高校生達も恐ろしい運命を辿っていくかもしれないことに気付いていないのかもしれませんね。

 

 それとは反対に、望月先生は乗客ではなく、観覧車の歯車と共に、そして大宇宙と一緒に、ゆっくりと、動じることなく、崇高に回られているように感じられます。望月先生にとって本当にキッチュなのは観覧車なのではなく、おそらく、とんでもないこの世(俗世界)なのだと思います。それでも「神様は、教会には不在でキオスクにおわします。」と、言う哲学者の言葉に触れられている部分が、とても温かみがあってフレンドリーですね。望月先生と、この世との関係性にも似ている感じがするのですが。。。

 

 でも、先生はこの世の通常相反する、「善」と「悪」、「キッチュ」と「聖なる場所」、「孤独」と「至福」を観覧車の詩では全て相対的に捉え、それらを更に超越した世界へと観覧車で浮遊し到達され、無我の境地に至られている様な感覚も伝わってきます。

 

 私にとって、望月先生は人間の姿をされた宇宙人・仙人の様な存在です。でも、そんな人間離れした先生からも人間的な疲れを「観覧車」を読んで感じた部分があります。それが、「ああ、孤独で過ごした旅が、何と恐怖で、至福な時だったことだろう。」です。こちらも私の勝手な解釈で申し訳ないのですが、望月先生はご自身の人生を殆ど私達を救うことに徹せられていらっしゃいますよね。ご自分の自由を犠牲にもされていらっしゃる部分は想像できないほど大きいかと思います。また、超人的な能力が備わっていらっしゃいますし、責任感と使命感が強い望月先生を世の中が放っておいてくれることもありません。ですので、先生は観覧車から、シナイ半島の砂漠の景色の中を歩くご自分を見つめられ、久々に自由自在なご自分を一瞬でも取り戻せたのだと感じました。望月先生に取って「孤独」とは、無我の境地なのかも知れませんね。それは先生のエネルギーの源ですよね。

 

 現実社会に溺れ過ぎると本来の自分自身を見失ってしまうことは私も私なりの次元では理解できます。私の場合ですが、時々孤独になれる時間を作らないと、自分自身と静かに向き合えなかったり、リセットできなかったり、また、インスピレーションを感じたり、大切なメッセージを受け取れることもなかなかないです。望月先生の御本の「海辺での瞑想」が、私が現在時々実行している貴重な孤独な時間です。孤独にも色々な種類がありますが、例えば、芸術家や詩人が語る「孤独」には私自身とても癒されます。芭蕉の「奥の細道」にも憧れます。

 

 望月先生が確定申告を控えられたストレスが高い時期にこそ、この観覧車の詩をインスピレーションで一気に書き上げられたことがとても創作的でステキで、先生らしいです。最も忙しい時こそ詩人になる心の余裕が必要ですよね。

 

 私もいつかまた観覧車に遭遇した時には、先生のこの詩を思い出し、自分自身の不安=次元を少しでも乗り越えて良い心象風景を味わい、感謝できる自分になっていたいです。病んだ乗客をひっきりなしに乗せて、素晴らしい景色を見せ続けてくれる観覧車こそが、私は実は望月先生なのだと思っております。。。!

 

 ステキな詩をどうもありがとうございます。。。!私も今は不思議と少しばかりか、また、明るい心境になっております。望月先生の詩を読んで、色々と人生について考えるきっかけを心静かに築くことができています。これからも望月先生の色々な局面を表現された詩に出会えることを楽しみに致しております。観覧車の詩は、私のマインドフル(瞑想的)・リーディングです!また読みます!また望月先生も書いてください!