こころの持ち方 (1)

こころの持ち方 (1)


『自分の思う通りになれば素敵だが、ならなくてもそれは、それで良い。この経験を神がくださった事として、わたしは拒否しません。』

 去年(2019年)12月、全身癌に侵されて、奇跡的に完治したYさんは、「病を知ったとき、わたしがメモした文章です」 と言って私に教えてくれました。
 Yさんが凄いところは、脳にも転移して一時眼が見えなくなったときでも、これはこれでいい、真我は病気ではないと言って、普段と同様に振る舞い、生きることをあきらめることもなく、生きていることに感謝して明るく生活したことです。

 私は、このメモの文章を読んだとき、このようなこころの持ち方ができるのは、相当な覚悟がないと出来ないと感じました。そして、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」 という言葉を思い出しました。捨て身の覚悟があってこそ成就できるという意味です。
 人間は、誰でも追いつめられるとなかなか自分の心をコントロールするのは難しいのです。Yさんも、最初は心をコントロールするどころではなかったと思います。しかし、彼女には、ヨーガの教えと実践がありました。ヨーガを深く理解した結果、上のメモの言葉になったと思います。

 以前、アメリカの医療評論家が、癌の末期で助かる見込みがないのに、奇跡的に助かった人たちがいて、その治った理由を個々人に会って調べたという本の内容を教えてくれた人がいました。
 その奇跡的に助かった人たちには、共通した心の持ち方があるというのです。それは、「死ぬのも、生きるのも、神様の思し召しに従います」 というものでした。奇しくもそれは、Yさんと同じこころの持ち方でした。きっと、その捨て身の覚悟が、宇宙の大いなる力を呼び込んだに違いありません。

 それは、言葉を変えれば、生きる執着を捨てるということです。これは、なかなかできそうで、できません。人間は、どういうことがあっても、生きたいという強い執着を持っています。室町時代の高僧一休宗純が、臨終に際して 「死にとうない」 と述べたことは有名です。高僧といえども、この生きることに対する執着を捨てることは、ことのほか難しいことを物語っています。

 執着を捨てるということは、執着を手放すということです。
 禅の言葉に 「放てば手にみてり」 という言葉がありますが、手放してこそ大切なものが手に入るという意味だと思います。
 アフリカに、猿を捕まえる方法があるそうです。手がやっと入る壺を用意して、その中に餌を入れます。すると、猿は壺に手を差し入れて、中の餌を掴みます。餌を手放せばよいものを、壺から手を抜くことができなり、捕まってしまうのです。

 柳生石舟斎や五輪の書にもあるという道歌 「切り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ、一歩踏み込め後は極楽」
 私は、若いころ武道をやっていて、この道歌をロンドンで身をもって体験をしたことがありました。
 道場では、乱捕り(空手の自由組手)があり、一対一で格闘します。相手は英国人の大男です。私は小柄ですから、恐怖心でそのまま下がれば、手足の長い相手に恰好のサンドバックさながら、突きと蹴りでぼこぼこにやられます。後じされば、相手は一層好戦的になります。
 私は、後じさりをやめて、思い切って、相手の懐へ飛び込んだのです。相手が息を吸った瞬間、一歩前に出ると同時に、右こぶしを突き出しました。人間には無意識に二回、隙ができます。息を吸ったときと、吐いたときです。その瞬間に打ち込まれると、防御できないのです。こぶしが相手のあごを直撃すると、英国人の大男はのけ反り、続けて腹部へ左こぶしを突き出しました。相手はくの字に身を屈め、それから戦意をなくして攻めてこなくなりました。
この体験があって、私は 「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」 を理解しました。

 今、病気を抱えて、不安の日々を送っている人、治る見込みがないと絶望している人、あるいはコロナウイルス感染に恐怖を感じて生活をしている人もいると思います。そういう不安には、どう対処したらいいのでしょうか。

 そういう時は、視点を転換したらいいとアウシュビッツの強制収容所から生きのびた心理学者ヴィクトール・フランクルがアドバイスをしています。
 なぜ私はこんな苦しみに会わなければならないのかと宇宙に問いかけても、答えはない、そうではなく、今、宇宙があなたにどう生きるかを問いかけているのだ、と考えるのです。そうしたら答えはあります。

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