こころの持ち方 (2)

こころの持ち方 (2)

言葉について

 動物は、およそ五億四千万年前のカンブリア紀に初めて、眼を持ちました。闇黒の世界に光を見たのです。想像してください。動物は、初めて世界を見て、そこから俯瞰することを学んだのです。鷲は、俯瞰してネズミを捕え、ネズミは俯瞰しながら鷲から逃げたのです。
 人類は、言葉を最初に獲得したのは4~5万年前だと言われています。恐らく言葉を使い始めて、初めて自分を意識したのではないでしょうか。今ある肉体が自分であると、言葉を獲得して初めて自覚したと思います。水に映った肉体とそれを見ている自分と、最初は二人いたと思います。言葉を使うことによって、自分を意識して、二人は一人になったのではないでしょうか。
 また言葉を覚えて自分を意識し、初めて明日ができ、その先ができ、そして永遠ができたのではないでしょうか。それは、言葉を覚えてから、俯瞰してものごとを見ることを学んだと言えます。
 言葉がなければ、明日もその先も、永遠もなかったのです。今、この瞬間しかなかったと思います。今しかなかったら、人間は過去を悔やんだり、将来を心配して悩むこともなく、日々、今を暮らすことができたでしょう。動物を見れば分かります。動物は、生きることに悩みません。不幸なことに、言葉を覚えたばかりに、人間は悩むことを覚えたのではないでしょうか。

 現代社会では、言葉がないと生活はできません。言葉は必要で便利ですが、一方言葉で実在を見失うのです。私は、このことをチベットで体験しました。
 ヤムドク湖という標高4500メートルで瞑想をしました。高地のため呼吸が苦しく、体が思うように動かないと同時に、頭が働かないのです。
 今、岸辺に座って瞑想しています。前方に山が見えます。思考が働かないため、山という言葉がでてこないのです。私たちは、言葉によってそこにそのものがある(実在する)、と思っています。しかし、山は言葉であり、山そのもの(実在)とは違います。
 言葉のない世界で、見ている自分と目の前に見ているもの(山)は、区別がつかなくなります。山はみえているそのものであり、それに名前をつけたらその瞬間別ものになります。それを禅では、「山であって、山ではない」 と表現します。

 今、医師から、余命1年です、と告げられたら、普通は絶望的になります。しかし言葉を止めて、今に心をおくと、あと1年しかないという言葉も消えて、今しかなくなります。この今しかない今を、生きればいいのです。この今は、永遠の今です。過去、現在、未来も含んだ今。パラレルワールドの世界です。ここには永遠の今があるばかりで、余命1年の世界などないのです。

 ここで、言葉をロゴス、言葉のない世界をレンマに置き換えてみます。
 つまりレンマを説明するのは、大変に難しいのです。なぜなら、ロゴスを尽くして説明すればするほど、レンマから遠ざかってしまうからです。
 例えば、哲学者が、フェノメノン(現象)とイデア(本質)を説明するとき、哲学者は言葉を尽くして説明します。言葉で説明すればするほどジレンマに陥り、難解になり本質から遠ざかります。
 ところが、松尾芭蕉は、「荒海や佐渡によこたふ天の川」 や 「閑さや岩にしみ入る蝉の声」 などと俳句を詠みます。荒海や蝉の声は現象で、天の川や閑さは永遠(本質)を表現しています。芭蕉は本質のイメージを 「不易」、現象のイメージを 「流行」 と言いました。これらの俳句を読んだら、すんなりとだれにでも現象と本質が分かります。
 このように詩人は、言葉のない世界を、あえて言葉を使って、表現できる人たちです。それゆえ詩人の方が、哲学者よりも評価が高いのです。