こころの持ち方 (4)
ブッダの心象風景
ブッダも、言葉のない世界(涅槃)へ入っていきます。涅槃(ニルバーナ)とは、火を吹き消すという意味です。ブッダは、ロゴスを吹き消して涅槃へ入ったのです。そして、ブッダは、無常を超えた涅槃は、無常ではなく、常であり、無為であると説きます。
無為とは、この世でも他の世界でもない領域、死も再生もなく、苦の終わりであり、生ぜず、成らず、形成されず、条件づけされていないものである、といいます。
経文では 「諸行無常 是生滅法 消滅滅巳 寂滅為楽」 といいますが、私がそれをイメージして書いてみます。
ブッダは、2500年前インドに生まれて、輪廻転生から逃れる方法を考え仏教を興しました。大乗仏教は、それを更に進めて、宇宙は人間の判断基準を超え、善悪を超え、喜びも悲しみも、生も死も、そのままありのままで、起きてくるすべてが清らかな存在であるという考えに到達しました。それを、「本来自性清浄」 といいます。
また、宇宙に起こることは、すべてそうあるしかない、そうあるべきだ、むしろそれは根源的な清らかさであるととらえました。それを、「本来清浄涅槃」 といいます。
そして、天国も地獄も、どこか遠くにあるのではなく、この瞬間に、今、ここに在ると考えました。それを、「無住処涅槃」 といいます。
今、現在、肉体を持ってこの世にいるということは、この瞬間に、魂が欲求する本当の自分は、ただ 「存在する状態」 でありたいということです。この瞬間に、天国はあるのです。無住処涅槃です。
以上のことを理解して、死ぬことも人生の一部分であることを知り、生かされていることに感謝の気持ちをもって、今生きているこの瞬間を楽しめばいいのです。そうして、宇宙へ静かに帰って行けばいいのです。
ブッダも、言葉のない世界(涅槃)へ入っていきます。涅槃(ニルバーナ)とは、火を吹き消すという意味です。ブッダは、ロゴスを吹き消して涅槃へ入ったのです。そして、ブッダは、無常を超えた涅槃は、無常ではなく、常であり、無為であると説きます。
無為とは、この世でも他の世界でもない領域、死も再生もなく、苦の終わりであり、生ぜず、成らず、形成されず、条件づけされていないものである、といいます。
経文では 「諸行無常 是生滅法 消滅滅巳 寂滅為楽」 といいますが、私がそれをイメージして書いてみます。
私は、いま、 ここに在る
私という存在は
他の全ての現象と同様に
一つの共有物であり
輪廻する私は
私のものではなく
他の誰かのものでもなく
ましてやみんなのものではない
花が花であるように
山が山であるように
石が石であるように
私はただそのようにある
そこには意味も無意味もない
それは、驚くべきことである
不生であり無為である涅槃は
無常を超えた常の世界から見れば
意味も無意味もない現象が
生成消滅を続けながら
それでも形成されて存在している
それ自体
なんと奇跡的なことであることよ (『いのちの知恵』より参照)
私という存在は
他の全ての現象と同様に
一つの共有物であり
輪廻する私は
私のものではなく
他の誰かのものでもなく
ましてやみんなのものではない
花が花であるように
山が山であるように
石が石であるように
私はただそのようにある
そこには意味も無意味もない
それは、驚くべきことである
不生であり無為である涅槃は
無常を超えた常の世界から見れば
意味も無意味もない現象が
生成消滅を続けながら
それでも形成されて存在している
それ自体
なんと奇跡的なことであることよ (『いのちの知恵』より参照)
ブッダは、2500年前インドに生まれて、輪廻転生から逃れる方法を考え仏教を興しました。大乗仏教は、それを更に進めて、宇宙は人間の判断基準を超え、善悪を超え、喜びも悲しみも、生も死も、そのままありのままで、起きてくるすべてが清らかな存在であるという考えに到達しました。それを、「本来自性清浄」 といいます。
また、宇宙に起こることは、すべてそうあるしかない、そうあるべきだ、むしろそれは根源的な清らかさであるととらえました。それを、「本来清浄涅槃」 といいます。
そして、天国も地獄も、どこか遠くにあるのではなく、この瞬間に、今、ここに在ると考えました。それを、「無住処涅槃」 といいます。
今、現在、肉体を持ってこの世にいるということは、この瞬間に、魂が欲求する本当の自分は、ただ 「存在する状態」 でありたいということです。この瞬間に、天国はあるのです。無住処涅槃です。
以上のことを理解して、死ぬことも人生の一部分であることを知り、生かされていることに感謝の気持ちをもって、今生きているこの瞬間を楽しめばいいのです。そうして、宇宙へ静かに帰って行けばいいのです。