太古、人類の祖先は古細菌であった 1-3
単細胞生物
細胞は生物の最も基本的な構成単位です。一つの細胞が独立し生きていく単細胞生物と、細胞が集まって生きていく多細胞生物になり、細胞膜の内部と外部を区別して、自分から自分の一部を生み出して続けて、枝分かれして増えていきました。そうして生物は 「主体的な認識」 を備えて生きてゆくことになるのです。
ここで一つの細胞からなる単細胞生物、ゾウリムシを見てみましょう。
ゾウリムシは、細胞膜と細かな絨毛しかありません。障害物にぶつかるとよけ、高温、低温、酸性、アルカリ性を避け、餌となる細菌がいると食べ、判断して行動しますが、脳はありません。それらの判断は、ゾウリムシの皮膚というべき細胞膜によるというのです。世界共通祖先の微生物も、きっと感覚があったと思われます。そうでなければ、生命の維持活動ができません。
ロゴスとピュシス
私たちは、細胞膜というと絵で見る細胞の内側と外側を仕切る壁として考えます。このように見てしまうのは、私たちの思考にあるのです。
今、私たちが考えている考え方は、ロゴス的思考です。古代ギリシア(二千数百年前)のイオニアで、ヘラクレイトスが、「相反するものの中に最も美しい調和がある」 「万物は流転する」 といい、ピュシス(自然)の立場で自然哲学を説きます。それに対になる言葉として、「ロゴス的立場」があります。ピュシス対ロゴスです。言い方を変えれば、レンマ対ロゴスと言えます。
ロゴスは、言葉とか論理という意味で、あらゆるものを理解できるものとして、西洋の歴史は、すべてソクラテスやプラトンの影響下にありました。
ロゴスは、客観的に基づくものであり、合理的思考と思われてきましたが、20世紀にドイツの哲学者マルティン・ハイデッガーが登場してから、それは実は人間の主観のもたらす思考であって、その思考では自然が本来持っている実在・リアリティが失われてしまう、と主張しました。
ハイデッガーは、ロゴス的立場では、「現存在」 つまり今生まれつつある存在、ありのままに起きている存在が失われてしまう、それを 「存在の不在」 であると言いました。
そのことに気づいていた哲学者が世界でもう一人いました。日本の西田幾多郎です。アリストテレス、プラトン以来の人間の思考は、本当のリアルな自然の生の世界に触れるのではなくて、人間の主観性の中で構築され、作られてきたもので、それらはロゴス的立場に基づくもので、それらに対するアンチテーゼとして、西田は、「ピュシスの原点に還れ」 という独自の考えを深めていきました。それが、「純粋経験」です。
動物を深い観察に基づいて研究したドイツの動物学者ヤーコブ・フォン・ユクスキュルは、それぞれの動物には独自の認識している世界があり、その認識の総体を 「環世界」 と呼びました。生物学の本流からは観念的だと批判されましたが、このユクスキュルの考えに影響を受けて、マルティン・ハイデガーは、人間存在を 「世界内存在」と呼びました。
分子生物学者の福岡伸一は、「分子生物学的な生命観に立つと、生命体とはミクロなパーツからなる精巧なプラモデル、分子世界に過ぎないといえる。デカルトが考えた機械的生命観の究極的な姿である。生命体が分子機械であるならば、それを巧みに操作することによって生命体を作り変え、“改良” することも可能だろう。」(『生物と無生物のあいだ』福岡伸一著、講談社現代新書) と考えて、遺伝子改変動物 “ノックアウト” マウスを作り、その子供マウスの様子を見ました。すると、遺伝子を変えてもどこにも異常も変化もみられなかったという。
その結果、「つまり私たちの生命体の身体はプラモデルのような静的なパーツから成り立っている分子機械ではなく、パーツ自体のダイナミックな流れの中に成り立っている。」(同上)と述べています。
以上の福岡の見方は、細胞膜は固定された壁や、静的なパーツが張り合わされて作られたプラモデルではなく、内側と外側をつなぐ説明不可能なダイナミズムが存在しているのではないかと言っているようです。これはピュシス的な視点であり、西田の「純粋経験」 に通ずるものを感じます。
またゾウリムシに戻ります。ゾウリムシには、脳はありません。障害物にぶつかるとよけ、高温、低温、酸性、アルカリ性を避け、餌となる細菌がいると食べるのは、ゾウリムシの細胞膜の感覚によって判断するのです。脳神経がある生物では、高温に触れると熱いと感じて、それが脳神経へ伝わり「熱い」と意識します。それを知覚と言います。脳がない生物では、感覚機能は働いても、知覚がなく意識もないとされます。
ところが、現在はその考え方が変わってきました。長い間、生物学者たちは、動物にはヒトのような大脳皮質がないので、意識はないと考えてきました。というのは、21世紀になってヒトだけではなく、ヒト以外の哺乳類、鳥類、タコや昆虫にも、意識の神経回路があると認められたからです。従来は、大脳皮質がなければ意識のような複雑な働きは生まれてこないと考えられていましたが、動物の感情についての神経基盤は大脳皮質ではなくて、もっと下にある神経回路に存在していることが分かってきたからです。(ヒト以外の生物にも意識が認められた『生物に世界はどう見えるか』実重重実著、新曜社参照)
たとえば、タコは、ビンの蓋を開けて、中の餌を取り出したり、ビンに閉じ込められても、内側から蓋を回して脱出することもできると言います。これは、猿でもヒトの赤ん坊でもできないことです。タコの神経細胞は、3~5億個もあると推定されていて、ネズミの2億個よりもはるかに多いのです。
細胞は生物の最も基本的な構成単位です。一つの細胞が独立し生きていく単細胞生物と、細胞が集まって生きていく多細胞生物になり、細胞膜の内部と外部を区別して、自分から自分の一部を生み出して続けて、枝分かれして増えていきました。そうして生物は 「主体的な認識」 を備えて生きてゆくことになるのです。
ここで一つの細胞からなる単細胞生物、ゾウリムシを見てみましょう。
ゾウリムシは、細胞膜と細かな絨毛しかありません。障害物にぶつかるとよけ、高温、低温、酸性、アルカリ性を避け、餌となる細菌がいると食べ、判断して行動しますが、脳はありません。それらの判断は、ゾウリムシの皮膚というべき細胞膜によるというのです。世界共通祖先の微生物も、きっと感覚があったと思われます。そうでなければ、生命の維持活動ができません。
ロゴスとピュシス
私たちは、細胞膜というと絵で見る細胞の内側と外側を仕切る壁として考えます。このように見てしまうのは、私たちの思考にあるのです。
今、私たちが考えている考え方は、ロゴス的思考です。古代ギリシア(二千数百年前)のイオニアで、ヘラクレイトスが、「相反するものの中に最も美しい調和がある」 「万物は流転する」 といい、ピュシス(自然)の立場で自然哲学を説きます。それに対になる言葉として、「ロゴス的立場」があります。ピュシス対ロゴスです。言い方を変えれば、レンマ対ロゴスと言えます。
ロゴスは、言葉とか論理という意味で、あらゆるものを理解できるものとして、西洋の歴史は、すべてソクラテスやプラトンの影響下にありました。
ロゴスは、客観的に基づくものであり、合理的思考と思われてきましたが、20世紀にドイツの哲学者マルティン・ハイデッガーが登場してから、それは実は人間の主観のもたらす思考であって、その思考では自然が本来持っている実在・リアリティが失われてしまう、と主張しました。
ハイデッガーは、ロゴス的立場では、「現存在」 つまり今生まれつつある存在、ありのままに起きている存在が失われてしまう、それを 「存在の不在」 であると言いました。
そのことに気づいていた哲学者が世界でもう一人いました。日本の西田幾多郎です。アリストテレス、プラトン以来の人間の思考は、本当のリアルな自然の生の世界に触れるのではなくて、人間の主観性の中で構築され、作られてきたもので、それらはロゴス的立場に基づくもので、それらに対するアンチテーゼとして、西田は、「ピュシスの原点に還れ」 という独自の考えを深めていきました。それが、「純粋経験」です。
動物を深い観察に基づいて研究したドイツの動物学者ヤーコブ・フォン・ユクスキュルは、それぞれの動物には独自の認識している世界があり、その認識の総体を 「環世界」 と呼びました。生物学の本流からは観念的だと批判されましたが、このユクスキュルの考えに影響を受けて、マルティン・ハイデガーは、人間存在を 「世界内存在」と呼びました。
分子生物学者の福岡伸一は、「分子生物学的な生命観に立つと、生命体とはミクロなパーツからなる精巧なプラモデル、分子世界に過ぎないといえる。デカルトが考えた機械的生命観の究極的な姿である。生命体が分子機械であるならば、それを巧みに操作することによって生命体を作り変え、“改良” することも可能だろう。」(『生物と無生物のあいだ』福岡伸一著、講談社現代新書) と考えて、遺伝子改変動物 “ノックアウト” マウスを作り、その子供マウスの様子を見ました。すると、遺伝子を変えてもどこにも異常も変化もみられなかったという。
その結果、「つまり私たちの生命体の身体はプラモデルのような静的なパーツから成り立っている分子機械ではなく、パーツ自体のダイナミックな流れの中に成り立っている。」(同上)と述べています。
以上の福岡の見方は、細胞膜は固定された壁や、静的なパーツが張り合わされて作られたプラモデルではなく、内側と外側をつなぐ説明不可能なダイナミズムが存在しているのではないかと言っているようです。これはピュシス的な視点であり、西田の「純粋経験」 に通ずるものを感じます。
またゾウリムシに戻ります。ゾウリムシには、脳はありません。障害物にぶつかるとよけ、高温、低温、酸性、アルカリ性を避け、餌となる細菌がいると食べるのは、ゾウリムシの細胞膜の感覚によって判断するのです。脳神経がある生物では、高温に触れると熱いと感じて、それが脳神経へ伝わり「熱い」と意識します。それを知覚と言います。脳がない生物では、感覚機能は働いても、知覚がなく意識もないとされます。
ところが、現在はその考え方が変わってきました。長い間、生物学者たちは、動物にはヒトのような大脳皮質がないので、意識はないと考えてきました。というのは、21世紀になってヒトだけではなく、ヒト以外の哺乳類、鳥類、タコや昆虫にも、意識の神経回路があると認められたからです。従来は、大脳皮質がなければ意識のような複雑な働きは生まれてこないと考えられていましたが、動物の感情についての神経基盤は大脳皮質ではなくて、もっと下にある神経回路に存在していることが分かってきたからです。(ヒト以外の生物にも意識が認められた『生物に世界はどう見えるか』実重重実著、新曜社参照)
たとえば、タコは、ビンの蓋を開けて、中の餌を取り出したり、ビンに閉じ込められても、内側から蓋を回して脱出することもできると言います。これは、猿でもヒトの赤ん坊でもできないことです。タコの神経細胞は、3~5億個もあると推定されていて、ネズミの2億個よりもはるかに多いのです。