存在するという純粋な感覚 3
純粋経験
この言葉がなくなった状態は、私と山の「本質」が否定され、私と山はただそこに一つになって「在る」のです。主客関係が消失して、存在することの純粋な感覚、 つまり主客を包み込んだ「無」の次元といえます。
この純粋に在るという感覚は、私が幼稚園で、キンダーブックという児童の絵本を見ているときのことを思い出しました。アリたちが忙しそうに地下に巣を作っていて、餌を運んでいます。その絵本を見ていると、アリの道が狭くて息苦しく感じられ、まさに私がアリになっていました。
またイスラエルのキブツでカメレオンを捕まえて部屋で飼っていたときのことです。長い間飽きずに、じっとカメレオンだけ見詰めていました。そのとき、床にアリが一匹這ってきました。そのアリを見た瞬間、カメレオンが巨大な恐竜になって見え、びっくりしました。私は小さなアリになってしまったのです。
またアルジェリアの旅では2週間、来る日も来る日もサハラ砂漠の褐色の大地と青い空を眺めて移動していました。そこには遮るものが何もなく、ふと見上げた空が巨人の青い瞳に見えました。神様に見られている、と感じた一瞬でした。沙漠のような何もないところから一神教が生まれるのだなとその時思いました。
私だけでなく皆さんも、このような感覚をどこかで感じたことがあると思います。ある男性は定年になり、田舎で野菜を育てたというのです。いつも書類とにらめっこをしていた生活から解放されて、畑で大豆を育てたそうです。大豆がちっちゃな芽を出してきた時は、感無量で自分が大豆の芽になったようだというのです。
登山を趣味にしている男性が、岩山をよじ登り休憩した瞬間、目にした前の「石になった」と言った言葉を思い出しました。
またサーフィンが大好きな若い人は、高波と自分が一体になる瞬間がたまらないというのです。
このような人もいました。眼がだんだん見えなくなる病気で、ほとんど明るいと暗いしか区別がつかなくなってしまったのですが、一方耳はすごく敏感になったそうです。お店に入ると見えないのに、この部屋の天井が高いとか、奥行きがあるとか、幅が狭いなと分かり、眼からの情報が無くなった分だけ周りと一体になれるのですといっていました。
江戸時代の国学者・本居宣長の提唱した美的理念「もののあわれ」も、ものを見て感動し、ただ「あれあれ・・・」と言ったのだと思います。言葉が出る前の自分と見たものが一体となった感動が「もののあわれ」となったのかもしれません。
このような経験のことを、哲学者西田は「純粋経験」と言いました。主客が分かれる前のところでそれらが「一つになる」経験。つまり感動して言葉が出る手前のことです。言葉が出てしまったら、純粋経験ではなくなります。言い換えれば、自然の「真の実在」を文字通り真の実在として、そのまま思慮分別を加えることなく経験することだと西田は言います。