存在するという純粋な感覚 4
一(いつ)なるもの
このように「在る」ということは、考えて見ると不思議なものです。仏教でいったら、一(いつ)なるものが在るのです。それを形容するもの、美しいとか、山とか川というものはその他多くの属性、多(た)なのです。つまり一即多、多即一です。この一は神性のようなものです。仏教の仏、ヨーガの真我、スピノザの汎神論のようなものです。
このことを道元は、「身心脱落」と言いました。人間主体の自我的構造の解体です。映される自己(鏡像)も、映す自己(鏡)もともに払拭されてしまうことです。要するに、自我が徹底的に無化されることです。
またパタンジャリの著書(二千年以上前の本)『ヨーガ・スートラ』の最初に、「ヨーガとは心のはたらきを死滅することである」と記されています。「心のはたらき」とは言語とも言えます。言葉を止めたら本当の自分・真我(宇宙)になるというのです。
人間は道具として言語を使ってきましたが、他の道具のように脳から言語を外しておくことはできません。そこで古代インド人は言語をストップできないのは、人間を超えたところに超越した存在があると考えたのです。もっと高次の力の存在があることを確信したのです。それが神だったのです。人間が神を知るためにすべきことは、言語の源泉までたどり着き、言語のない意識状態のまま存在することでした。神とは言語のない宇宙意識なのです。
パタンジャリは、『ヨーガ・スートラ』では心のはたらきを簡潔に述べ、詳しく記述することを差し控えました。言葉で記述したら言語という心のはたらきで解釈してしまうからです。パタンジャリのスタンスは、ここにヨーガがあります。自分でやって見てごらんなさいというだけです。
以前エッセイで、「竹富島で日本人のルーツを考える」を書きましたが、その中の「西表島の密林にて」で、「―― ここに美しい『密林』がある。 『密林』の美しさというようなものはない。『密林の美しさ』という想念は、観念に過ぎるだけでなく、経験の事実を伝えていないように思われる。私に許されているのは、ただ美しい『密林』を見ることだけである ―― 」 と書きました。
なぜこのような込み入った文章を書いたのかを説明します。
約5万年前の古代の密林に足を一歩踏み入れたときでした。突如、私は眩暈(めまい)のようなものに襲われました。古代のジャングルからでる音。動物や植物や昆虫が出す耳には聞こえない環境音、ハイパーソニック・サウンド。それは耳には聞こえませんが、皮膚や内臓で感じることができる高周波の音です。それに飲み込まれたのです。熱帯樹林の枝や根が、大小の蛇がからまりながら、おどろおどろしく四方八方にうごめいて伸びている錯覚におちいりました。
この時私は、密林と一つになっていたようです。そして、美しい密林があるという表現に、何か抵抗を感じたのです。「美しい密林」は私の感情から出た言葉です。それは主語ではなく、その奥に「在る」という存在自体が主語ではないのか。すると西表島という存在が、美しい密林として現れていると感じられたのです。そう思えると、その島の存在が一(いつ)で、私や密林の美しさが多なのです。言葉から出た密林の美しさが主語のように振る舞うとうそっぽくなり、一なる神性を差し置いて、観念的で経験の事実を伝えていないように私には感じられたのでした。
最後の句は、「山是山」で再び山は山であると言います。
山と一つになった状態から、再び見ている私と見られている山(主客)が提示されます。この一なるものから多になる時、山は経験的に、自分との関わりによって、つまり縁起的に自分のものとして認識されます。
「無」とか「無心」とかいう絶対的なものだけで禅はできているのではなく、それが刻一刻、一と多に変化し、また多と一に変化して縁起的経験的世界を構成していきます。その全体こそが、禅の見る実在の実相なのです。
そして、この三つの句を体験することが、「空」を体験することではないのかと思います。この宇宙には、有ると、何もない無があります。西洋では「無」は何もないと考えて問題にしませんが、東洋では無といっても、何もないものがあると考えて、有と無を包んだものを空と考えました。「空」はフィールド(場)といえます。言語学者で哲学者の井筒俊彦氏は、「空」というフィールドにアクセスできる人のことを悟った人ということになるといっています。
この「空」にアクセスした人を、ヨーガではジーバンムクタといいます。思考を超えた無垢清浄の三昧に到達し、普通に生活しながら宇宙意識と一体になっている人です。
私たちはこのような悟った人は特別で、深い山の中に籠って修行している人を想像しますが、必ずしもそうではないようです。パラマハンサ・ヨガナンダの『あるヨギの自叙伝』を読むと、聖者は山に籠って修行している人だけでなく、サラリーマンで仕事をしたり、家庭で奥さんにこごとを言われている聖者がでてきます。ヨガナンダは、瞑想で硬直状態になった段階から、さらに高い境地に達すると「普段と全く同じ状態で宇宙意識を保持しながら、日常の仕事に従事することができる」と述べています。