イスタンブール再訪 (2)
そして、時は流れ1985年、イラン・イラク戦争勃発。サダム・フセインのイラン上空航空機に対する無差別攻撃宣言後、在イランの自国民救出の為、各国は救援機を飛ばし次々とイランを脱出。しかし、日本政府は救援機を飛ばすことが危険と判断し救助要請に応えなかった。テヘランに残された日本人は215人。メヘラバード国際空港で誰も助けの来ない危機的状況に陥り絶望の淵に立たされた。日本大使館はトルコへ日本人救出を依頼。
しかし、そこには救助を待つ大勢のトルコ人たちが詰め掛けていたので、日本人は搭乗を諦めかけたが、一人のトルコ人がトルコ人の前に出て「日本人たちを乗せて欲しい」と頼み込む。しかし、トルコ人たちは日本人を乗せることに反対し、彼の話を聞こうとしなかった。彼は、トルコ人たちに、「祖先たちは異国の地で絶望に陥った際に救ってもらえた。今、日本人を救えるのはあなたたちだけだ」と告げる。それを聞いたトルコ人たちは騒ぐのを止め、日本人たちを飛行機に乗せ始める。トルコ人たちは、「私たちは車でトルコに向かう」と告げる感動の場面がありました。
その場面を見ていた私の前の座席のトルコ人の老人は、流れてくる涙を手で拭っているようでした。
この映画を見ると、時代を超えて受け継がれてきた人々の絆・真心が、現代に至るまで日本とトルコの友好関係の源泉となっていることが分かりました。
私は、イスタンブールへは、過去3回訪れています。1回は、イスタンブールからインドへ行く時、2回目はインドからイスタンブールへ戻ってきた時、3回目はアフリカを回り、エジプトから船で紅海を渡り、ヨルダン、シリアを旅し、イスタンブールへ辿り着いた時です。
イスタンブールでまず思い出すのは、ガラタ橋というアジア岸とヨーロッパ岸を結ぶ浮橋があったことです。ボスポラス海峡にぷかぷか浮いているこの橋の上を、よく散歩しました。トルコ人の男たちが、大勢浮橋の上から魚釣りをしていました。アジやサバなどを釣り上げて、中には釣った魚を並べて通行人に売っていました。
そして、橋のたもとでは、大鍋に油を沸かして、アジを油で揚げて、パンに挟んで売っていました。私も買って食べましたが、結構うまかったです。サンドイッチの包装紙が、使い古したノートの切れ端で、会計の数字がぎっしりと記してあり、そこに油が染み込んでいるのでした。
そのガラタ橋へ行って見ることにしました。空は青く晴れて、ロンドンを出るときは暖房をしていましたが、こちらは35℃くらいあり、陽射しが強くて暑かったです。今、イスタンブールの人口は、1,500万人くらいと言いますので、東京都よりも人口が多いのです。周りには、3~40回建の高層ビルがにょきにょきと立っています。
今、私が見るガラタ橋は、昔とすっかり変わっていました。もう浮橋ではなく、鉄骨で、海面よりもかなり高くなり、橋の上を電車も通ります。ただ魚釣りをしている人たちは、40年前と変わりありませんでした。話に聞くと、20年くらい前に、橋は火災で燃えてしまって、鉄骨の橋になったようです。
また、強く印象に残っているのは、この町で毛皮のチョッキを販売している店員たちでした。
今のようにきれいで清潔なお店はなく、雑然とした闇市みたいな通りが多くありました。道は雨が降るとぬかるみ、その通りに面した毛皮を商いにしているお店で、私は羊のバックスキンのチョッキを買いました。そのお店の店員たちは、モンゴル出身のお相撲さんみたいに、体格がよく、みんな顔が丸くて大きなモンゴロイド系でした。
13世紀にモンゴル帝国が大きくなり、やがてトルコもその傘下に入り、西はオーストリアのハプスブルク家と戦いをするほど広大な勢力を持っていました。やがてトルコの一部分でイスラム化が起こり、11世紀頃、イスラムがインドへ侵攻していきます。そして16世紀にインドでムガール帝国を打ち立てます。モンゴルは、インドではムガールといいます。やがて偶像崇拝を禁止するイスラムにより、寺院や仏像が破壊され、仏画の目をくりぬかれ、仏教僧が殺されることになり、13世紀初頭に、インドから仏教が滅びることになるのです。
そして、モンゴル帝国の兵士たちはイスタンブールを引き上げて行ったのですが、一部残ったモンゴル人たちが、今も賭殺や毛皮職人などの下層の仕事をして生活しているのでした。私は20代に、そのモンゴルの末裔を見て、不思議な寂しみを覚えました。それが何だったのか知る由もありませんでした。今回のアヤソフィアの壁画を見て、それが「悲しみ」であり、「美」であり、「愛」であると理解できたのは、ヨーガをやってきたおかげで、人生を深く味わうことができたのだと思いました。
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