レンマの詩 (1)
友よ!
思い悩んで
苦しきときは
ロゴス(言葉)を止めて
宇宙の叡智ーレンマの海へ
思いをゆだねよ
思い悩んで
苦しきときは
ロゴス(言葉)を止めて
宇宙の叡智ーレンマの海へ
思いをゆだねよ
思い返せば、レンマを自覚したのは、身体障害者を見てからだった。脳がまったく働かない顔に、笑顔を見たとき、その崇高な笑顔に、私は、驚愕した。そこに宇宙の叡智を感じたのだ。
そうして、南方熊楠を思い出し、粘菌を思い出し、脳がなくても、この宇宙で全てのいのちあるものは、立派に考えることができる、と知ったのだ。これこそレンマなのだ。
大昔、ギリシアで考えられたロゴスとレンマ。ロゴスは、言葉と論理で考え、レンマは正しいものを、一瞬でぱっと掴むのだ。
ロゴスは、ギリシアで発達し、西洋へ受け継がれて行く。レンマは、東洋で発達する。そうして大乗仏教では、ナーガールジュナ(龍樹)や、ウ゛ァスバンドゥ(世親)らによって最高に発達した。
友よ!
古代人も、レンマを知っていたのだ。
その証拠に、血縁結婚が多かったせいか縄文時代の土偶には、奇妙な顔かたちの不具者や、重度の認知症の土偶が多い。
なぜ不具者たちの土偶を作ったのか。それは、縄文人たちが不具者たちに畏敬の念を抱いていたからだ。身体的不具者を 「聖なるもの」 とみなし、神から遣わされたものとして聖別していたのだ。
その考えは、古代から近代へ受け継がれて、沖縄では知的障害者をフーグァ(福をもたらす子)と呼び、本州でも 『遠野物語』 にしばしば知的障害者がでてくる事実からも分かる。
友よ!
レンマ的知性は、チベットの僧院でも用いられ、数学者があきらめてリラックスしたときに、神様へお祈りしたときに、人々の夢や直感に現れ、虫の知らせに働くのを知っていたのだ。
科学者もそうである。発明や発見は、みなロゴスを止めたときに起きるのだ。セレンディピティ(求めずして思わぬ発見をすること)も、間違った為に発見することも、すべてロゴスを止めたときに起こるのだ。
友よ!
レンマ的知性を働かせるには、ロゴスを止めることである。ヨーガや仏教は、それを知っていた。瞑想や呼吸法は、ロゴスを止めることであるからだ。
友よ!
知的障害の子供に、レンマの眼がそなわっていることを知っているだろうか?
レンマの眼は、ある人にとっては、怖い存在だ。
ある3歳の知的障害の子供を持った母親が、私のエッセイを読み、息子にはレンマ的知性があると確信した。その瞬間、奇跡が起きたという。
今まで、息子は、母親と視線を会わすことがなかった。顔を見ても、母親からいつも視線を外してしまう。その瞬間から、息子はじっと母親の眼を見るようになったという。それから、初めて言葉を話したという。そうして、テレビで6月という声が聞こえると、「はい」 と言って手をあげるという。6月生まれだった。知恵の遅れた息子のレンマの眼は、母親の心を見抜いていたのだ。