太古、人類の祖先は古細菌であった 2-6

太古、人類の祖先は古細菌であった 2-6

 また、脳科学者が、脳卒中になった本(『奇跡の脳』ジル・ボルト・テイラー著、竹内薫訳、新潮文庫)を思い出しました。彼女は、左脳が壊れても、脳科学者らしく冷静に自己を観察しています。
 彼女は、左脳が機能不全になり、右脳で感じ始めるのですが、それは 「ニルバーナ」 の安らぎだったというのです。まず身体の境界がなくなり、流体のように周囲に溶け合い、自分もそのエネルギーとしてその中に織り込まれていて、過去も未来もなく 「今」 だけがある。思いやりにあふれた、静かで平和な解放感、至福の一体感だったというのです。
 そして、左脳が回復していくにつれて、過去、現在、未来を分析し、自分自身が全体から切り離された独立の個体として考えるようになったというのです。
 これは、テイラーが、左脳が回復していくと論理脳が優位になり、右脳から 「ニルバーナ」 の安らぎが消えっていったのです。これは、二分心と似ている気がします。文字が発明され、異なる文明の交流が始まると、右脳から左脳へ支配が移り、神の声は意識に変わり、二分心は崩壊し、そして神々は沈黙したというジェインズの筋書きに一致します。

日本の二分心を考える
 日本人は、アニミズム、自然崇拝から始まっています。特に日本人は、樹木を大切にします。樹木の中に霊が宿ると思っているからです。
 日本人は、古来から森で木を伐るときに、その木の前で儀式をしてから伐採し、それからきこりたちは、木の霊を慰めるために木塚を建ててきました。
これをジェインズの二分心で説明すると、日本人は、右脳に自然の神がいて、左脳の人間にそれを実行させていたことになります。
 たとえば、森で木を伐るとき、右脳の自然の神が、切ってもいいが切る前に木に許しを請えと命令し、左脳の人間が切らせてくださいとお願いして木を切るのです。そうして木材として使った後、こんどは自然の神が、右脳へ囁くのです。 「木の霊を慰霊しろと」 その命令されたきこりが、木塚を作って木の霊に慰霊するのです。これは、神の命令で、人間の意志でしたわけではありませんので、きこりたちには、ほとんど無意識にやってきた昔からの習慣と思っていることでしょう。
 きっとこのような精神構造が、1万年以上続いた縄文時代の大昔から現代に至るまで、日本人の心の底に、無意識に流れていると思われます。その自然の神の声は、日本人の道徳心に、あるいは天皇制に響き渡っているのでしょう。
 たとえば日本人の道徳心を考えてみます。フランスの詩人・劇作家ポール・クローデルは、駐日大使として大正10年(1921年)に日本へやってきました。歌舞伎や能に造詣が深かったクローデルは、日本の芸術家達を 「(略) 目に見える世界とは、彼らにとって「知恵」(サジエス)への絶えることのない暗示(アリュージョン)であったということをよく知るならば、よく理解できよう。例えば、この国に生える大木が言葉では言い尽くせないようなゆっくりとした感覚によってわれわれが悪へ走ることへの拒否(ノン)を言うようにである。暗示(アリュージョン)であって幻想(イリュージョン)ではない。(『朝日の中の黒い鳥』ポール・クローデル著、内藤高訳、講談社学芸文庫)
 クローデルは、日本人の道徳心は、大木の霊から学んだもので、悪へ走ることを戒められていると直感していました。それは、自然の神の声が、日本人の右脳へ囁きかけているからなのです。

 神道と仏教について考えてみます。
 この二つは、もともと性格が違います。仏教は、内面を重視する個人宗教です。キリスト教もそうです。神道は、共同宗教です。イスラム教もそうです。そして、神道とイスラム教は、偶像崇拝を禁止しています。仏教も、始めはブッダの姿を描くのは恐れ多いといって、菩提樹や車輪などのシンボルで表現していました。仏像ができたのは、パキスタンのガンダーラでギリシア人の仏教徒が3世紀ごろ仏像を作ってからです。ですから、神道やイスラム教には、ほとんど見るべき芸術作品はありません。
 『日本書紀』 によれば、日本に仏教が伝来したのは6世紀のころといいます。欽明天皇が、百済から仏像一体と若干の経典を献じられました。天皇は、初めて仏像を目にしてびっくりしたと思われます。いままで、埴輪の顔しか見てこなかったからでしょう。
 それから、聖徳太子によって、仏教が始まります。仏教は、個人宗教ですから、仏像も人間の内面を表現したリアルな姿が作られました。もともと縄文人は、「火焔型土器」(国宝)や「縄文のビーナス」(国宝)など、優れた芸術作品を作り、洋画家・彫刻家の岡本太郎などに絶賛されたほどですから、その血を受け継いだ子孫たちが続々と傑作を作っていったのは自然の成り行きでした。
 そこで、歴史を見ると、神道と仏教は神仏混淆となり、神道は国家などの公務に向けられ、仏教は個人的に扱われて現在に至っています。両方、うまい具合に振り分けられて来ました。

<<前ページ 1 2 3 4 5 6 7 次ページ>>