コロナ禍で、自分と向き会う日々 2
虫の声について
日本では、蝉の鳴き声を懐かしく感じるというのは、普通のことのように思われますが、これはどうも日本人特有の感覚であるらしいです。
東京医科歯科大学の角田忠信教授の研究によると、欧米人は虫の声や風の音などは右脳で聞き、日本人は左脳で聞くというのです。左脳は言語脳ですから、日本人は虫の音を「虫の声」として聞いているので、風情があると感じますが、欧米人は虫の音を、雑音と同様に右脳(イメージ脳、音楽脳)で処理するので、蝉の音は雑音にしか聞こえないか、耳に入らないというのです。また、日本人は会話をしながらでも蝉の声が聞こえますが、アメリカ人は会話をしながら絶対に蝉の声を聴くことができないというのです。
それで思い出したのは、昔読んだ雑誌の記事に、時代劇のビデオテープを海外に輸出していた会社があり、ビデオテープに雑音が入っているというクレームで多く返品があったというのです。調べると、夏の場面で蝉が鳴いている箇所があり、その蝉の鳴き声を消して送り返したら、クレームがなくなったという記事でした。
そして、面白いことに、虫の音を左脳で聞くのは、日本人とポリネシア人だけだそうです。中国人も韓国人も、すべて西欧型といいます。ただ韓国人でも日本で育った人は、完全な日本型になるといいます。これは、西欧型か日本型かは人種の違いではなく、日本語を母国語として育ったかどうかで決まるというのです。
このような研究を通して分かったことは、日本人は自然音を言語脳で受け止める生理的特徴と、擬声語・擬音語が高度に発達した言語学的特徴と、あらゆる自然に神が宿り、人間はその一員にすぎないという日本古来からの自然観に合致しているというのです。
「脳の機能と文化の異質性」 というシンポジウムで、ノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士は、「(略) 日本人はいままでなんとなく情緒的であるというていた。論理的であるのにたいして、より情緒的であるといっていたのが、構造的、機能的、あるいは文化的といってもいいけれども、そういうところに対応する違いがあったということが、角田さんのご研究ではっきりしたわけです。(略)私は人文、社会関係の方にぜひ考えていただきたいのは、その違いを生かすということ。違うがゆえに独創的なものが生まれるのである。西欧に比べてあかん、劣っているという考え方が根深くあったけれども、そういう受け取り方をしたら劣等感を深める一方です。」 (『左脳と右脳』角田忠信著 小学館ライブラリー) と語っています。
この湯川博士の言葉は、幼時から英語教育を強いて母国語をないがしろにすると、日本人には独創的なものが生まれにくくなると忠告しているように聞こえます。
日本には古来から現在まで、虫の音に聴き入る文化があったということは、以下のような歌からも分かります。
夕月夜心もしのに白露の置くこの庭にこほろぎ鳴くも (万葉集)
(夕月が照る夜に、心もしなえるほどに白露がおりているこの庭に、こおろぎが鳴いています)
秋風の寒く吹くなへ我が宿の浅茅が本にこほろぎ鳴くも (万葉集)
(秋風が吹くにつれて、我が家の浅茅の根元でこおろぎが鳴く)
庭草に村雨降りてこほろぎの鳴く声聞けば秋づきにけり (万葉集)
(庭の草に村雨が降ったあと、こおろぎの鳴く声が聞こえたが、そこにすっかり秋の深まりを感じた)
ひぐらしは時と鳴けども片恋にたわや女我れは時わかず泣く (万葉集)
(ひぐらしは時節がきたといって鳴いていますが、片恋をしているたわやめの私は、時を選ばず泣いているのです)
人もがな見せも聞かせも萩が花咲くゆふかげのひぐらしのこゑ (千載和歌集 和泉式部)
(だれかいないものかしら、見せたり聞かせたりしたいのに、萩野の花が咲いて、夕日の中にひぐらしの声がきこえるのを)
さまざまの虫のこゑにもしられけり生きとし生けるものの思いは (明治天皇の御歌)
(様々な虫の声を聴いていると、生きとし生けるものの感情が伝わってくるよ)
子供の童謡・唱歌/「あれ松虫が鳴いている」 にも、松虫がチンチロリン、鈴虫がリンリンと鳴き、コオロギ、ウマオイ、くつわ虫など五匹の虫たちが登場して、「ああ おもしろい 虫の声」 と歌います。
そういえば、欧米文学の詩に、虫の声や風の音などを詠んだものはありません。日本では、虫の声を詠んだ松尾芭蕉の有名な俳句があります。
閑さや岩にしみ入る蝉の声
(何とひっそり静まりかえっていることか、蝉の声が岩にしみ込んでいくようだ)
私は、この句に瞑想をしていると、立石寺のひっそりと静まりかえった自然が、岩にしみ込んでいく蝉の声で、さらに深い静寂さが感じられます。きっと芭蕉は、蝉の声で、宇宙の寂寞の音を表現したかったのかもしれないと思いました。
それはさておき、芭蕉は、やかましい蝉の声まで俳句に読むことができたのです。きっと左脳(言語脳)で聞くことができたからですね。私は、日本人として日本に生まれてきたことに幸せを感じました。
日本では、蝉の鳴き声を懐かしく感じるというのは、普通のことのように思われますが、これはどうも日本人特有の感覚であるらしいです。
東京医科歯科大学の角田忠信教授の研究によると、欧米人は虫の声や風の音などは右脳で聞き、日本人は左脳で聞くというのです。左脳は言語脳ですから、日本人は虫の音を「虫の声」として聞いているので、風情があると感じますが、欧米人は虫の音を、雑音と同様に右脳(イメージ脳、音楽脳)で処理するので、蝉の音は雑音にしか聞こえないか、耳に入らないというのです。また、日本人は会話をしながらでも蝉の声が聞こえますが、アメリカ人は会話をしながら絶対に蝉の声を聴くことができないというのです。
それで思い出したのは、昔読んだ雑誌の記事に、時代劇のビデオテープを海外に輸出していた会社があり、ビデオテープに雑音が入っているというクレームで多く返品があったというのです。調べると、夏の場面で蝉が鳴いている箇所があり、その蝉の鳴き声を消して送り返したら、クレームがなくなったという記事でした。
そして、面白いことに、虫の音を左脳で聞くのは、日本人とポリネシア人だけだそうです。中国人も韓国人も、すべて西欧型といいます。ただ韓国人でも日本で育った人は、完全な日本型になるといいます。これは、西欧型か日本型かは人種の違いではなく、日本語を母国語として育ったかどうかで決まるというのです。
このような研究を通して分かったことは、日本人は自然音を言語脳で受け止める生理的特徴と、擬声語・擬音語が高度に発達した言語学的特徴と、あらゆる自然に神が宿り、人間はその一員にすぎないという日本古来からの自然観に合致しているというのです。
「脳の機能と文化の異質性」 というシンポジウムで、ノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士は、「(略) 日本人はいままでなんとなく情緒的であるというていた。論理的であるのにたいして、より情緒的であるといっていたのが、構造的、機能的、あるいは文化的といってもいいけれども、そういうところに対応する違いがあったということが、角田さんのご研究ではっきりしたわけです。(略)私は人文、社会関係の方にぜひ考えていただきたいのは、その違いを生かすということ。違うがゆえに独創的なものが生まれるのである。西欧に比べてあかん、劣っているという考え方が根深くあったけれども、そういう受け取り方をしたら劣等感を深める一方です。」 (『左脳と右脳』角田忠信著 小学館ライブラリー) と語っています。
この湯川博士の言葉は、幼時から英語教育を強いて母国語をないがしろにすると、日本人には独創的なものが生まれにくくなると忠告しているように聞こえます。
日本には古来から現在まで、虫の音に聴き入る文化があったということは、以下のような歌からも分かります。
夕月夜心もしのに白露の置くこの庭にこほろぎ鳴くも (万葉集)
(夕月が照る夜に、心もしなえるほどに白露がおりているこの庭に、こおろぎが鳴いています)
秋風の寒く吹くなへ我が宿の浅茅が本にこほろぎ鳴くも (万葉集)
(秋風が吹くにつれて、我が家の浅茅の根元でこおろぎが鳴く)
庭草に村雨降りてこほろぎの鳴く声聞けば秋づきにけり (万葉集)
(庭の草に村雨が降ったあと、こおろぎの鳴く声が聞こえたが、そこにすっかり秋の深まりを感じた)
ひぐらしは時と鳴けども片恋にたわや女我れは時わかず泣く (万葉集)
(ひぐらしは時節がきたといって鳴いていますが、片恋をしているたわやめの私は、時を選ばず泣いているのです)
人もがな見せも聞かせも萩が花咲くゆふかげのひぐらしのこゑ (千載和歌集 和泉式部)
(だれかいないものかしら、見せたり聞かせたりしたいのに、萩野の花が咲いて、夕日の中にひぐらしの声がきこえるのを)
さまざまの虫のこゑにもしられけり生きとし生けるものの思いは (明治天皇の御歌)
(様々な虫の声を聴いていると、生きとし生けるものの感情が伝わってくるよ)
子供の童謡・唱歌/「あれ松虫が鳴いている」 にも、松虫がチンチロリン、鈴虫がリンリンと鳴き、コオロギ、ウマオイ、くつわ虫など五匹の虫たちが登場して、「ああ おもしろい 虫の声」 と歌います。
そういえば、欧米文学の詩に、虫の声や風の音などを詠んだものはありません。日本では、虫の声を詠んだ松尾芭蕉の有名な俳句があります。
閑さや岩にしみ入る蝉の声
(何とひっそり静まりかえっていることか、蝉の声が岩にしみ込んでいくようだ)
私は、この句に瞑想をしていると、立石寺のひっそりと静まりかえった自然が、岩にしみ込んでいく蝉の声で、さらに深い静寂さが感じられます。きっと芭蕉は、蝉の声で、宇宙の寂寞の音を表現したかったのかもしれないと思いました。
それはさておき、芭蕉は、やかましい蝉の声まで俳句に読むことができたのです。きっと左脳(言語脳)で聞くことができたからですね。私は、日本人として日本に生まれてきたことに幸せを感じました。