コロナ禍で、自分と向き会う日々

コロナ禍で、自分と向き会う日々 7

インドの死と生

 こういう生きるという事実を、論理構造上からとらえたのは、シェーンハイマーが70年ほど前に初めて発見したのですが、実は遥か以前、数千年前に、インドではすでにそのことについて考えられていました。
 インドでは、人間の個人我とか人格的同一性などは、極限的短時間のうちに生じて、直ぐに滅びてしまうといいます。滅びてしまうと、また極限的短時間のうちに生じて、断つことなく続いて、人間の心の流れができていると考えました。

 人間の身体もそうです。日々細胞が死んで、新しい細胞が生まれます。分子と原子のレベルでは常に交換が起きていて、高速で入れ替わっているのです。その流れ自体が 「生きている」 ということです。ということは、生は死に基づいていて、死は生の本質的要素をなしています。また死を離れて生はないともいえます。人間は、原子の次元で高速に生まれて、そして高速で死ぬことによって生きているともいえます。

 このことを仏教では、刹那滅恒隋転(せつなめつごうずいてん)といいます。または、念々生滅念々相続(ねんねんしょうめつねんねんそうぞく)といいます。
 刹那とは念ともいい、インドの言葉の 「クシャナ」 を中国語に訳した言葉で、時間の最も短い単位、アトムとかモナドにあたるものだそうです。

 一方、意識もすでに念々相続によって成り立っているので、意識されたものは、すでに滅び去った念そのものではないといいます。そして、刹那に生じて滅する心の現象を本当にとらえることができるのは、インドの思想家によって昔から言われてきましたが、定とか三昧の精神状態しかないというのです。それは、普通の思考では全く通用しない直感的な世界です。

 ヨーガは、行によって、直感で見る方法です 今まで西洋の科学は、デカルトも、カントも含めて、すべて外から見ていたのです。そとから客観的に見ることが、科学的であると思われてきました。哲学者の西田幾多郎は、次のように述べています。

 「物には二つの見方がある。一つは物を外から見るのである。或る一つの立脚地から見るのである。(略)即ち、分析の方法である。分析ということは、物を他物に由って言い表すことで、この見方はすべて翻訳である。符号Symbol によって言い現わすのである。然るに、もう一つの見方は、物を内から見るのである。ここには着眼点などというものは少しもない。物自身になって物を見るのである。即ち直感Intuition である。」

 西田の生涯の友人であった仏教学者の鈴木大拙は、林檎を理解するには、林檎を分析的に見ていくのではなくて、林檎は林檎としてそのままに体験しなければならないといったことと同じです。レンマ的知性は、論理と生命と実在が離れ離れにならず、それらが一つになっている世界です。
 このような人間の心理現象と身体の実体は、刹那という極限的短時間に生じて、そして滅びてしまいます。この不連続の連続のような心の心理現象を理解するには、直感により、レンマ的知性で見るしかないのです。つまり、心の働きを止めて、言葉のない世界で、その物自身になって見るしかないのです。

 西洋の近代哲学や科学には、「不連続の連続」 という考え方がありません。ゼノンの「飛ぶ矢は止まっている」というパラドックスがあります。矢は微分的に時間を止めて見ると、いつも止まっているということになって、的にあたることはない、という。時間は点の集まりでしかないのです。実際には、矢は止まることなく、的に刺さります。「不連続の連続」 を考えれば、連続した時間が生み出されるのですが、そういう視点がなかったのです。
 直感で見ることができない私たちには、不連続の連続という超論理的な事態を認めるしかありません。すると死と生は、不連続の連続として、念々相続、恒隋転のまま肉体的生命の結びつきがなくなっても、心の流れとして綿々として流れていくことになります。

 もし私たちが、精神活動の全体は脳の活動の全体を越えていて、脳はただ精神の活動が行為として、物質の世界に自己を実現していくにあたって、それを外界の実在に順応するように調整する器官にすぎないと、考えることができれば、死後の精神の存続も考えられ、自分が死んだらすべては無に帰するという恐怖が少しはなくなるかもしれません。
 世界で、このような死後の存続を考えた一流の科学者、哲学者、文学者たちは多くいます。
 そのなかに、哲学者アンリ・ベルクソンもいました。彼も同じように考えて、「もし意識の殆ど全部が肉体から独立しているということが確認されるならば、さきの否定根拠(注:死が万事の終わり)はもはや価値がないわけである」 と言って死後の存続を認めています。

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