48年ぶりのお花見

48年ぶりのお花見 3


ダブリンでのある体験

 私は、このお話を聞いて一笑に付すことができませんでした。というのは、以前アイルランドのダブリンで体験したことが思い出されたからです。
 ダブリンは、古い町並みがそのまま残っています。ロンドンに来た東大の建築学の先生が、「ダブリンは経済発展が少なかったために、まだ昔の建物がそのまま残っています。昔のロンドンの建築を見たければ、ダブリンを見ることです。」 と言っていたことを思い出しました。
 早朝、そのダブリンの遺跡のような通りを、古い教会を目指して歩いていました。石畳も古くて、角がすり減っていました。
 急に足が重たく感じました。何か上からのしかかってくるような、そんな圧力を感じました。当然、歩く速度も落ちました。なんだろう、変だなと思いながら、気のせいかもしれないと考えました。そして、後ろを歩いて来る家内へ、何か感じるかと尋ねました。すると、彼女も上からのしかかってくるような重さを感じて足が重いというのです。

 イングランドによるアイルランドの植民地化は12世紀から始まったと言いますから、800年近くも英国に植民地扱いされて、あちらこちらで多くの人々が独立を蜂起して虐殺された歴史があるのです。
 後で知ったのですが、この辺りも、昔、ダブリン市民が独立を蜂起して、英国軍に多数殺されたところでした。


インドでの体験

 このような現象は、気のせいだ、迷信だといって否定することもできます。その一方で、その場所に残された人の想念の波動が影響を与えるからではないか、と考えることもできます。
 量子力学でいえば、物質の最小単位は原子同士が動き回っているので、波動に近いといいます。波動の結びつきが強いものは硬いものになり、結びつきが弱いものは柔らかいものになるというのです。そして、波動に法則があり、同じ波動のものは引き合い、違う波動のものは反発し合う性質があるそうです。考えてみれば、人間の心・想念(意識)も波動で、日常生活では引き合ったり、反発し合ったりしています。

 心・想念(意識)が波動であるならば、そこに肉体がなくても、波動として残っていると考えることもできます。哲学者アンリ・ベルクソンは、「もし意識の殆ど全部が肉体から独立しているということが確認されるならば、さきの否定根拠(注:死が万事の終わり)はもはや価値がないわけである」 と言って死後の存続を認めています。ということは、死後も、その人の想念が波動として残っていると考えても不思議ではないと思います。
 このことは、私がインドで体験しました。以前、何回もブッダの四大聖地を訪れたことがありました。その一つに、ブッダが悟りを開いたとされる仏教の最大の聖地ブッダガヤがあります。その地を20代の最初に訪れた時は、聖地を見たという大きな満足感と、目頭が熱くなる感動がありました。それが、ヨーガを始めてから30代で再び訪れた時、感動は爆発にかわりました。突然わけもなく、唇をふるわせて号泣してしまったのです。
 それは、何かに触れた感触でした。2500年前のブッダの波動がまだ遺跡に残っていて、それを感じたのかもしれません。ブッダが悟りを得た金剛宝座に近づくと、足元が、地震が起きたように揺れ始めたので、びっくりしました。立っていることができなくて、よろめきながら菩提樹の下で泣き伏してしまいました。個人で来てよかったと思いました。こんな姿を、ヨーガの生徒さんに見られたくなかったからです。
 その時ブッダガヤで、瞑想して感じたのは、ちっぽけな自分と宇宙の無限の大きさでした。きっとブッダの悟りの波動の一端に触れたのかもしれません。

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