48年ぶりのお花見

48年ぶりのお花見 8


宗教の二つの類型

 ここで宗教について考えてみましょう。宗教学者によると、宗教は二つの類型、神秘思想と予言者的信仰に分けることができるそうです。
 神秘思想の宗教は、人間各自の自我の観念を中心とし、自我意識から出発します。現実的存在としての自己を肯定する限り、絶対的、根元的な存在と触れ合うことができないので、現実の自我とその世界を完全に否定することから始まります。その否定をするのも自我の内でしかできませんので、自我は全ての始めであり、そして終わりであるのです。インドの宗教は、全体として神秘思想の型に属していると言われます。

 一方、これとは反対に、預言者的信仰は、霊媒の一種です。ある心霊の狂暴な干渉によって、自己の全人格を否定され、その心霊の道具と化されたものが霊媒ですから、憑依された霊媒の自我意識は問題にもされません。宗教者その人の主体性は、いかなる意味においても介入の余地がないのです。

 その反対に、神秘思想にあっては、宗教者その人の主体性は、いつも堅持されていて、自己を否定するのも自己であるのです。こう考えると、ヨーガや仏教やジャイナ教などは、神秘思想という同じような思想運動の流れに属していたといえるのです。

 このように考えてくると、私は見通しの悪い、暗い森の思考から神秘思想が生まれたのだと思います。その一方で、見通しのよい、俯瞰的な砂漠の思考から、一神教が生まれたのだと思います。事実、見通しのよいところでは、一神教の変容が見られます。縄文から弥生に時代が移り、暗い森から明るい水田に生活空間が移ったことで、見通しのよい空間が生れました。ここに俯瞰的な思考が生まれた可能性があります。
 それまで日本人は自然霊を崇拝していましたが、日本へ仏教が伝来(538年頃)するよりもおよそ250年早く 「論語」(285年頃) が伝わり、初めて俯瞰的な大陸から、「天」 という概念がもたらされたと言います。「天」 とは、古代中国では至上神で、モンゴル人のテングリ、ブリヤート人のテンゲリで、「天空」 という意味だといいます。これは一神教の変容といえるのではないでしょうか。

 インドの宗教では、ブラフマン(梵)が現れ、仏教に如来が現れ、これらも最高神の変容と考えれば、砂漠的ということができます。また、韓国ではなだらかな丘陵が連なり、乾燥した気候のため森林がほとんど破壊されて、大地は見通しがよいといいます。その韓国には、最高神のハナニム崇拝が伝統としてあり、イスラエルの一神教に通じるものがあるといいます。このことで韓国では、キリスト教が受け入れやすく、なぜ日本よりもキリスト教信者が多くて盛んなのかが分かります。

 考えてみれば、生物が眼を獲得してから、上からみる眼を持ち、補食していました。人間も、本来俯瞰的に見る砂漠的思考が備わっているので、神秘的な宗教でも一神教的な部分もあるのです。真言密教は、呪術と仏教が結合したもので、呪術は自己の言葉が世界の中心となるような森に根差していて、瞑想で大日如来(太陽)を観想するのは、一神教の変容とも言えます。

 これを違った表現をすると、人類は外に目を向けて、太陽や雨をもたらす砂漠の砂嵐などを神としました。その一方で、旧石器時代の人々は内側にも目を向けたのです。3万5千年前のヨーロッパ最古の洞窟壁画には、真っ暗闇の中で眉間に見えた 「眼内閃光」 とよばれる幾何学模様を燃えがらの炭で描いています。人類は初めて自己を見つめたのです。また深い森の中で、自我と向き会ったのです。そして、心の内側へ眼を向けることで、心の中に宇宙を見つけたのです。
 つまり、人類は、外に目を向けて絶対なる神に出会い、心の内に目を向けて絶対の宇宙と出会ったのです。和辻哲郎の表現を借りれば、砂漠的人間は人類に一神教の人格神を与え、インド人は人格神ならざる絶対者を与えたといえます。

 例えばヨーガでは、知覚器官を精神的な力で抑止し(制感という)、直感の心境に進み、そこから更に宗教学者がいう 「宇宙意識」 の神秘的な意識拡大を経験します。そしてそこから更に瞑想の行を推し進めてゆくと、ついに一切の意識が消え去って、「静寂我」 とか 「非顕現」 とか呼んでいる境地に至ります。これを仏教では、「空」 とか、「涅槃」 と言います。
 実は、神秘思想家にとっては、ここで終わりではありません。個人的自己の意識は完全に死に切って、主客の対立の意識は完全に絶滅し、すると実在がそれ自ら出現し、光明と幸福で辺り一面を充たしてしまいます。この体験をインドの神秘思想家は、プルシャ(真我)の自己開顕としたのです。このプルシャが、アートマンです。このアートマン(息・個我)とブラフマン(宇宙)が一体であることを直感することにより、永遠の至福に到達することを梵我一如といいます。
 これで分かるように、自我から始まる神秘宗教も、「ブラフマン」 や 「空」 や 「涅槃」 など変容した一神教的なものを想定しますので、森の思考からやがて砂漠の思考へ移っていくのです。もともと人間は多神教的であり、また一神教的でもあると思います。

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