48年ぶりのお花見

48年ぶりのお花見 9


不条理な人生を生き抜くには

 ここで思うのは、人間は何ごともなく、平和に日々暮らしていても、生きている間は様々な問題が起きてきます。その苦悩や不幸にただかかずらっている間は、ただそこで苦悩しているだけです。それだけでは、深く生きることはできません。個々の苦難や不幸を乗り越えて、生きることの問題へ突き進んでいった時に、初めてヨーガ的な欲求を持つことになるのです。

 特に、癌など致命的な病気になった時、初めて 「自分は、何の為に生きているのか」 「自分が生きていることに、一体どんな価値があるのか?」 
 こういうことが問題になった時に、人間は本当の自分を知りたいという欲求がでてくるのです。平凡に生きている時は、自分の仮面をつくろって生きていて、本当の自分は隠れてしまうのです。人間は、死ぬほどの問題が起きて初めて目覚めるのです。事実、死ぬのが怖くて、それを何とかしようと努力した 結果、聖者や宗教者になった人たちがインドや日本にもいます。

 「自分は、一体どこからきて、なぜ生まれて、死んでどこへゆくのか?」 さらに 「自分はいったい誰か?」
 インドの一般の哲学者によれば、人間が苦悩するのは、自分がいったい何者であるかを知らないからだと考えたのです。そこで自分の本性を知ることができれば、人間は自分の心(想念)が作り上げたすべてから離脱できるのではないか。そうして古代インド人は、心(想念)の働きを止める技法として、ヨーガを編み出していったのです。

 私たちは、夢を実現しようとして挫折したり、健康になろうと努力しても病気になったり、失敗して財産を失くしたり、大切な家族を失くして悲しみ、思い通りにいかないものです。
 ある女性は、ご主人が会社を退職したら、二人であちらこちらを旅行して過ごそうという夢を持っていました。ところが、退職してから直ぐにご主人が筋無力症になってしまい、夢は破れました。「私の人生は何だったのだろう」 と失望する日々が続きました。そんなとき私の拙著 『いのちの力』 を読み、 ヨーガに出会い、自分と向き合い、考え方が変わったというのです。そうして心が平安になると、日々ご主人の世話をすることが苦にならなくなり、かえって幸せを感じることができるようになったというのです。この女性は、夢は叶わなかったが、幸せを得たのです。
 このような人生の不条理には、そこに深い意味があることを諭してくれるような詩を紹介します。


無名兵士の詩

祈り
大きなことをなし遂げるために、「力」 を与えてほしいと神に求めたのに、
謙遜を学ぶようにと、「弱さ」 を授かった。
より偉大なことができるようにと、「健康」 を求めたのに、
より良きことができるようにと、「病弱」 を与えられた。
幸せになろうとして、「富」 を求めたのに、
賢明であるようにと、「貧困」 を授かった。
人生を享楽しようと、「あらゆるもの」 を求めたのに、
あらゆることを喜べるようにと、「命」 を授かった。
求めたものは一つとして与えられなかったが、
願いは全て聞き届けられた。
神の意に沿わぬものであるにもかかわらず、
心の中で言い表せないものは、全て叶えられた。
私はあらゆる人の中で、もっとも豊かに祝福されたのだ。

(映画『祈りーサムシンググレートとの対話ー』より)



2021年5月17日        望月 勇

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