死について考える

死について考える 6


死の恐怖を克服するには

 以上のように、生物学から死というものを見てきました。そして、生物は、なぜ死ぬのか? 死はなぜあるのか? が理解できました。
 それで死の恐怖を克服することができたかというと、死に対する見方が変わり、心持ちいくぶん楽になったような気もしますが、死の恐怖は依然として残ったままです。
 死の恐怖を克服するには、死後の存続についての確信が必要なのです。私たちが死んでも、個人的存在は無に帰することではない。自分の存在は、死によって断ち切られたりはしない、ということをかたく信ずることができたら、完全とはいわないまでも、死に対する恐怖は少なくなるかもしれません。

 孔子は、弟子に死について問われ、「未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らむ」 と答えたといいます。「まだ生きることについてさえよくわかっていないのに、死についてなどわかるはずもない」という意味です。孔子がこれをどう考えたのか真意は分かりませんが、色々な解釈を離れて、これを生きる仕組みがはっきり分かった時に、初めて死という仕組みが分かると解釈すると、ここには深い真理が含まれているようです。

 そこで、今、自分が生きている仕組みはどういうことかを考えてみます。私の身体、つまり肉体は生きています。その肉体は、瞬間瞬間に変化しています。全身37兆個の細胞が日々死んでは生まれ、生まれては死んで入れ替わっています。子供の時と、大人になった自分では、全身の細胞は入れ替わっていますので、別人といっても差支えはないのですが、私たちは、連続した個人的身体があるかのように考えています。

 心もそうです。心の現象は絶え間なく変化しています。一貫した不動な部分を見出すことはできないのに、全体としてひとりの人間の心として認めています。
 このように生きているということは、不連続な断絶を前提としながら、一方ではその連続を認めているという矛盾を含んでいます。生きているという事実は、この矛盾した変化の中では、通常の論理を超えた考えでしか理解できないのです。

 私たちの物理的宇宙の全体は、肉体をはじめ、みな原子や分子で構成されています。原子や分子も、死んでいるような休止状態と、生き生きとした活性化した状態とを繰り返しながら存在しています。宇宙はいわば、呼吸のような一定のリズムを持って、明滅しながら存在しているのです。心も切れ目なく連続しているように見えますが、不連続に明滅しているのです。

 この死ぬという仕組みは何かを、インドでは何千年も昔から考えられてきました。仏教では、「念々生滅念々相続」 という言葉で言い表しています。人は、刹那(瞬間)のうちに生まれて、刹那のうちに死ぬことによって生きているというのです。死は、いつも生の本質的属性をなしていて、死を離れて生はないのです。この考え方は、インドの多くの思想に採用されています。 そして、この刹那に生じて滅する心の現象をとらえるには、ロゴス的な知性などでは、まったく通用しないのです。この考え方を知るには、インドでは、定とか三昧という直観的な世界でしかとらえることはできないと昔から言われてきました。

 この死を離れて生はないという考え方を、量子論で考えたらどうでしょうか。肉体の原子や分子は、死と再生を繰り返しています。そうすると、私は、極微の死に囲まれながら生きているということになります。私自身が、それを意識することはありませんが、今原稿を書いている間にも、ある程度は自分自身の死のさなかで生をいとなんでいると言うことができるのです。私は、自分の肉体で、無数の死と再生が繰り返されているにもかかわらず、こうして生きています。まさに私の生は、そうした死と再生に支えられているとも言えるのです。

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