死について考える

死について考える 7


死は、日々体験している

 生きている間意識は、物質的現実に焦点を合わせています。次の瞬間に滅して、意識は別の場所に焦点を合わせています。私たちは、前者を生きている瞬間とみなし、後者を死んでいる瞬間とみなします。私たちは、生きている瞬間と瞬間のはざまに現れる死んでいる状態には気づいていません。このように生と死は、パルス(うねり)の上に成り立っているということができます。
 私たちは、自分の身体を持って初めて、自分という存在が成立していると独断的に思い込んでいます。

 繰り返していうと、私たちが自分と見なす体は、一生の間に部分的に死に続けてゆくので、現在の私たちの体には、十年前にそなえていた物質的粒子は、もはやただの一つも含まれていません。今の私たちの体は、十年前のそれとはまったく別ものなのです。十年前の私たちの体は、とうに死んでいるのです。しかし、明らかに、自分が死んでいるとは感じていません。
 たとえば私たちの目は、十年前とは完全に新しい構成要素からなっているにもかかわらず、今こうして文章を読むことができます。現在の私たちの瞳と同一の瞳は、十年前には存在していませんでした。一見私たちの視覚には、十年前から今まで切れ目はなかったかのように見えます。
 これで分かることは、死と生のプロセスが極めてスムーズに進行するために、私たちが死を自覚することはないからです。
 この死と生のプロセスの波動のうねり、あるいは振動の一揺れの長さが極端に短いので、私たちの意識はそうした切れ目を軽々と飛び越えていきます。
 しかし波動のうねりの長いリズムが生じると、私たちの物理的知覚力では、その間隙を埋めることができません。そうした長い切れ目を、私たちは死として認識するのです。短い切れ目の間隙には、私たちの意識は慣れていますが、物理的に存在していない間隙が長くなると、意識は困惑します。そして長い間意識が体を留守にすれば、意識自体によって死と見なされます。
 実は私たちは、誰もが日々死を体験しているのです。つまり物理的現実での意識の不在と同じ死を、ある程度すでに睡眠中に経験ずみなのです。

 量子力学では、量子にはすべての情報が付随するといわれています。すると原子には、過去世から現在までの情報が、すべて刻印されていることになります。死によってその人の身体を構成していた原子がバラバラになっても、それがリサイクルされて、その原子が後の世の人の身体に使われることになります。その場合、その原子は過去世を思い出します。そして、一定の範囲の量子や原子は、同じ意識に強く結びつき、一つにまとまる傾向があります。それにより統一体としての転生がしやすくなると考えられます。
 昔のことですが、日本の大発明家(自動炊飯器など2千を越す発明をした科学者)が、ある本の中で、私は日蓮の生まれ変わりです、というようなことを述べていたことを思い出しました。その時は、うさんくさい人だと思いましたが、日蓮の原子の一部がリサイクルされて使われ、過去世を思い出せば、このような発言になっても不思議はないと、今になって思いました。昔から自分の分身が、他の場所に存在していると主張する人たちがいるのです。彼らは、自分の原子の一部を、他人と共有していることが分かるようです。

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