死について考える 9
レンマ的知性
そこでロゴスではなく、レンマの宇宙の叡智を使って、生死を考えた人たちの深い示唆に富む考え方をみてみましょう。
古代インドで、ヨーガの瞑想という臨床体験を通し、レンマ的知性で到達した唯識瑜伽行派の考え方が、二つあります。「本来自性清浄」 と 「本来清浄涅槃」 です。
私たちは、この世界にあって欲しくないことを目にします。大国同士のエゴによる紛争、戦争、一般市民への大量殺人、放射能汚染、貧困、飢えなど、また地震や津波で多くの人々が亡くなることなどなど。
自然は美しいところもありますが、一方、荒々しいところもあります。人々を楽しませる反面、多くの人を殺すときには無慈悲に、不条理に殺します。なぜこの宇宙に、このような不条理なことばかり起きるのでしょうか?
大海に風が吹くと白波ができます。しけると大波が起きます。大海も白波も大波も同じ水です。やがて白波や大波が消えて、同じ水として大海へ帰ります。そのように様々なことが起きても、大海は何も変わらないように、私の身体や心が消えても、私は宇宙と一体となり、永遠であるのです。
私たちの身体は、37兆個の細胞でできています。一個一個の細胞には意識があって、レンマ的知性を持って、全体で協力して一人の人間を作っています。その個体は、やがて細胞死と老衰死で、また新しく再生するために宇宙に還ります。
この細胞と人間の関係は、細胞を人間、人間を地球として見たら、人間と地球の関係も同じです。また地球を宇宙の細胞として見たら、地球と宇宙の関係も同じです。人間が死滅して地球が消滅し、最後は太陽が消滅する日がやって来ます。一方、どこかで新しい太陽系が生まれ、宇宙では死と再生を繰り返しているのです。
インドの唯識派の僧侶たちは、このようなことをレンマ的知性で深く理解したのです。そして、生も死も創造も破壊も含んだ宇宙は、人間の判断を超えたもの、善悪を超えたものであることを理解したのです。
そうして、宇宙は、本来、喜びも悲しみも、生も死も、そのまま、ありのままで清らかなのだと直観したのです。それを、「本来自性清浄」 と表現しました。
また、肉体を持って存在しているこの瞬間は、永遠である。涅槃や天国は、どこか別のところにあるのではなく、魂が本当の自分で存在している処なら、どこにでもあると直観したのです。それを、「無住処涅槃」 と表現しました。
そして現代になり量子力学では、量子もつれ(エンタングルメントEentanglement)を発見しました。今、科学者の間では、この量子もつれでブラックホールの内部を解明ができるかもしれないと注目されています。発見したのはアインシュタインですが、分子や原子はどんなに遠くはなれていても(一光年でも)、瞬時に情報の交換ができるというのです。アインシュタインは、相対性理論で光よりも速いものはないと発表しましたので、量子力学は不完全に違いないといって、量子もつれを認めませんでした。彼が死んでから正しいことが証明され、インターネットや量子コンピューターに応用されています。
この量子もつれで考えると、宇宙は全部つながっていることになります。あなたが悲しめば、全宇宙が悲しみます。あなたが喜べは、全宇宙は、喜びます。この表現はたんなる譬喩ではなく、量子力学では正しいのです。私たちは、宇宙を織り成すタペストリーの一本一本の糸です。宇宙と私たちは、一体なのです。
レンマ的知性で考えれば、私たちはかけがえのない存在で、愛そのものであり、まず自分を愛することで、周りや地球や宇宙が変わることが分かります。
この世で生きる意味は、私は、この瞬間を楽しむことだと思います。生きることも死ぬことも、人生の一部分であることを理解して、生かされていることに感謝の気持ちをもって、私は死を迎えたら、ほほ笑みながら宇宙へ静かに還って行こうと思っています。
2022年4月4日 望月 勇