心とは何かを探し求めて 4
ヨーガとの出会い
私は、5年間の放浪生活中には、「自分とは何か?」 を見つけることはできませんでした。人間は、意識を持ってしまってから、自分を知りたいのです。理性(ロゴス)がそれを命じるのです。答えがないと分かっていても、自分を知りたいという欲求は消えないのです。人間の性(さが)なのかもしれません。おそらく1万年後でも、人間は自分を知りたいと思い続けるに違いありません。
そのような私の 「自分を知りたい」 という欲求が、ヨーガを引き寄せたのかもしれません。私は、独学でヨーガを始めました。そして、ひとりコツコツと、日々、休みなく、真剣さをもって、ヨーガを実践して行きました。すると今までは外に目を向けていたものが、心の内側に目が向いてくるのが分かりました。
そんな時に読んだのが、『ヨーガ・スートラ』(ヨーガ根本経典)でした。書かれている教典の文章は難解で、なかなか理解するのは困難でした。最初に、[ヨーガの定義]があり、「ヨーガとは、心のはたらきを死滅することである」(佐保田鶴治訳)という経文に釘づけになりました。心の働きを止めると、本当の自分(真我)が現れ、その本当の自分は宇宙そのものであるという意味です。私は、ここに初めて、自分の探し求めていた答えがあると直観しました。
私は、本当の自分と宇宙が一体であるということを、こんなふうにイメージしました。大海に風が吹くと、大小さまざまな白波が立ちます。その一つ一つの白波はやがて消えて、大海へ帰っていきます。白波は、元々大海の一部分ですから、白波が消えても、大海と一体になっただけなのです。
この譬えを使って、大海を宇宙、白波の一つを自分としたら、自分が死んでも、宇宙に溶け込んでいくだけなのだと理解しました。
こうしてヨーガを実践していくと、だんだんとその本質が分かってきました。
ヨーガの目的は、本当の自分(真我)と出会うこと。本当の自分と出会うには、心の働きを止めること。別の表現をしたら言葉(ロゴス)を止めること。この言葉を止める方法が、アーサナ(ポーズ)であり、呼吸法であり、瞑想なのです。こうして自分(真我)と宇宙が一体(梵我一如)となることを目指すのが、ヨーガの修行であることも分かってきました。
そして修行の極意は、「何も期待しないで、ただ待つこと」 なのだと知りました。日々、ヨーガをやりながら、期待しないで待っていると、向こうから恩寵がやってきます。それは、魂がこうありたいと欲求する、ただ「存在する状態」であり、不安もなく、恐れもない絶対的な平安なのです。
心に絶対的な平安が得られると、どういうことが起きて来ても平常心でいられます。宇宙は、人間の判断基準を超えていて、人間の都合に合わせてくれません。よいこともある代わりに、不条理なことも起きます。国同士のエゴによる戦争、一般市民の大量虐殺、飢えて死んでいく子供たち、地震や噴火や洪水などで亡くなっていく人々など、人間の願いとは裏腹に地球上のできごととして起きています。
しかし、人間が苦しもうが喜ぼうが、迷おうが覚ろうが、地震が起きようが火山が噴火しようが、どこかで星が消滅しようが、宇宙が宇宙であることには一切変わりありません。
そのような生や死や、創造や破壊をはらんだ美しい自然は、宇宙の一部分として存在していることを、私たちは知ることができるのです。
私たちは、宇宙と一体であって、永遠の存在であることが分かれば、私たち一人ひとりがかけがえのない存在で、愛そのものであることを知ります。宇宙が全部つながっていれば、自分を愛することで、相手や地球や宇宙が変わるのです。
今まで私は、ヨーガを実践してきて、これから人生をどう生きていけばよいかを、三つにまとめてみました。
一つは、自分を大切にして、生かされていることに感謝の気持ちを持つこと。そして、いろいろな体験を重ね、自分にできる範囲で人を助け、楽しみながら、これら多くの人生の収穫物を、心の金庫一杯に満たして生きることです。
二つ目は、できるだけ様々のことに興味をもって、知りたいことを探求すること。そして、心を深める生き方をして、できれば崇高でありたいと願うことです。
三つ目は、死を迎えたら、宇宙の大いなる存在に、「今までありがとう」 と感謝の言葉を述べながら、静かに宇宙へ還っていくことです。