心とは何かを探し求めて

心とは何かを探し求めて 6


以上のような量子論は、どのようにして生まれたのか?

 人類は、意識を持ってしまってから、自分を知りたいという欲求が強くありました。現代に生きる私たちにも、この世に生を受けてから、心とは何か? 自分とは何か? と一度は考えたことがあると思います。
 これは、古代人も同じでした。歴史を遡ると古代ギリシャでは、「心はと何か?」 ということを知るために、人間を存在せしめているこの世界や、宇宙全体を理解しなければならないと、その本質を追い求めたのがギリシャ哲学の始まりと言われています。

 その取りかかりとしてギリシャ人は、少なくとも二つの答えを提示しました。その一つは、哲学者デモクリトスが出しました。万物は、小さくて目に見えず、破壊できない粒子に還元できると考えました。その粒子を原子(アトムatom)と呼びました。
 二つ目の答えは、数学者ピタゴラスが出しました。彼は、竪琴の弦をつまびく音と、金属棒を槌でたたいて生じる響きとの間に、決まった比の振動数があり、耳に心地よい音になることを見出し、身の周りにある様々なものが、同じ数学的なルールに従っているのではないかと考えました。
 このようにして、ギリシャで生まれた二つの理論、万物は、目に見えない、破壊できない原子でできているとする考えと、自然界の様々なものが振動の数学によって表現できるとする考えが生まれたのでした。

 このような哲学的議論は、古代ギリシャ・ローマ文明が衰退すると共に消滅してしまいます。そして宇宙を説明するパラダイム(理論の枠組み)が、ほぼ1000年の間忘れ去られてしまい、その間、迷信や魔術の信仰に覆われてしまいました。

 それから17世紀になって、真理を知りたいという科学者たちが、宇宙の本質を探るべく立ち上がりました。最初は宗教的権威との命をかけた戦いでもありました。その真理の追及は、科学者たちによって受けつがれて行きました。そして科学者が新たな発明や発見をするたびに、その力は文明の進路を転じさせ、人類の運命を変えていったのです。それでは、量子論に行き着くまでの流れを見てみることにします。

 ヨハネス・ケプラーは、いち早く数学を惑星の運動にあてはめて考えました。彼は、神聖ローマ皇帝ルドルフ二世の相談役を務めたこともあったので、幸運なことに宗教的迫害は免れたようです。
 一方、ジョルダーノ・プルーノは、他の惑星にも生命が存在する可能性を主張したことで、異端審問にかけられました。猿ぐつわをはめられ、裸でローマの街を歩かされて、火刑に処せられたといいます。
 またガリレオも、死刑の脅しを受けて自説を撤回し、自宅に軟禁されました。人に会うこともできず、失明して失意のうちに亡くなりますが、その間、発明した望遠鏡を覗くことができました。そして異端の考えとされるもの、月のクレーターや、金星が太陽の周りを回ることや、木星に衛星があるということを発見し、ガリレオは実際にそれらを目にすることができました。

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