「自分とは何か?」 ある読者からの質問に答えて 4
ヨーガでは、本当の自分(真我)は見るものであり、それ以外はすべて見られるものであって、自然や自分の肉体や心も、見られるものと考えます。
『ヨーガ・スートラ』 に次のような経文(二・二一)があります。
「見られるものは、見るものの目的をもって、その本質としている。」
私は、この経文を読んで、この自然世界(見られるもの)は、本当の自分(真我)に経験を与えるために、自然は存在しているのだと理解しました。
そして、その前の経文(二・二〇)に、
「見るものは、純一なる見る力そのものである。それは清純であるが、しかし、覚が提供する表象を介して見ている。」
見るもの(真我)は、見る力そのものであり、真我自体は変わらないが、心を通して見るという現れ方をする、と言います。
その後の経文(二・二二)には、
「すでに目的を遂げた真我に対しては、見られるものは消滅する。が、しかし、それは他の真我との共有財産でもあるから、なくなりはしないのである。」
解脱した人の真我は、見られるもの(自然・マーヤー・幻影)は消えるが、他の解脱していない人の真我にとっては、依然として実在しているので、なくならないのだ、と言っています。
これらの経典から、自分の身に当てはめて考えて見ると、幼時から病気をして苦しんだのは、自然が真我に病気という経験を与えるために、病気は存在したのだ、ということになります。そう考えると、私たちは真我が病気を経験していると思ってしまいますが、真我は清純で、見るものであり、ただ病気の体験の目撃者であって、肉体が病気で苦しんでいても、真我はそれを目撃しているだけで、真我自体が苦しむということはないのです。そう理解すると、病気になったことも意味のあるものだったという気がします。 もし病気で悩んでいる人は、自分の病気は、真我に病気という経験を与えるために、今、病気になっているのだ、と思ってみてください。視点の転換で、何か変化が起きるかもしれません。
旅や読書や書くことには、気づきがあり、その気づきの一片一片が、人生を深く生きることに繋がっている気がします。「自分とは何か?」 という自分探しのテーマはなくなりましたが、見るもの(真我)で見られるものを体験して、宇宙のジグソーパズルを完成させ、そこから離れることに関心を持っています。
こうして、今回のエッセイ 「太古、人類の祖先は古細菌であった」、を書き始めたのです。生命の進化、生物の成り立ちが理解できればと思い、微生物から始めました。生物の曼荼羅のジグソーパズルのピースが少し手に入れば嬉しいという思いからでした。