「自分とは何か?」 ある読者からの質問に答えて

「自分とは何か?」 ある読者からの質問に答えて 6

日本とインドと中国の 「自然」 の違い
 ところで、多神教である日本人にとって、自然は神でした。右脳の神は、自然の神なのです。それでは、日本人にとって自然という言葉は何でしょうか。
 宗教学者の中沢新一によると、もともと日本には、自然という言葉がなかったといいます。ギリシア語には、「自然(ピュシス)」という言葉があり、ラテン語にも 「natura」 という言葉がありますが、日本語の 「自然」 という言葉は、中国語に訳された仏教のテキストから入って来たそうです。

 インドの仏教には、「自然」 と言う言葉は使用禁止になっていたというのです。仏教では、この世をすべて 「縁(relation)」 としてとらえ、実体がないという教えなので、人間の外にある自然を、 「自然」 という自律的な実態として認めることは許されなかったというのです。

 中国では、土着的な思考体系である道教がありました。中国仏教では、インド仏教の 「自発的に」 生起してくる存在を、どうしても 「自然」 と訳さないではいられなかったというのです。道教では、人間の外に客観的に存在する 「天然自然」 と、言葉によらない 「自由な状態にある心」 の二つの自然(無為自然)があったので、中国人は インド仏教の 「自発的に」 を 「自然」 という言葉に翻訳をしたのだそうです。これによって、「外的自然」 と 「脳内自然」 という思考が可能になったと中沢はいいます。
 そして、「外的自然」 と 「脳内自然」 との共鳴が発生して 「大いなる自然」 が浮かび上がってきます。この 「大いなる自然」 が日本人にとっての 「神」 であったというのです。

 これは、インド仏教からしたら明らかに逸脱ですが、自然をこよなく愛してきた日本人は、自分たちの思考を表現する道具として、この 「自然」 という言葉を自由に使って表現してきました。中でも、俳句などはレンマ的文学の最たるものです。
 ここで、日本人が、この 「大いなる自然」 をいかに表現するかに心をくだいてきたかということを見てみましょう。
例えば、江戸時代に芭蕉の有名な俳句があります。

 「古池や蛙飛こむ水の音」

 俳人長谷川櫂は、古池がある、蛙が飛び込む水の音がした、と正岡子規から山本健吉にいたるまでそういう解釈をしてきたことに疑義を挟んで、それを否定し、まず、蛙が飛び込む水の音がした、静まり返った古池のイメージが思い浮かんだ、と解しました。
 私は、この長谷川の解釈は、芭蕉の 「大いなる自然」 を表現した素晴らしい解釈であると思います。
 長谷川は、蛙が水に飛び込む音は流行(現象)で、古池のイメージは不易(本質)であると解釈したのです。

 これを敷衍すると、まず蛙が飛こむ水の音(外的自然)がした。その後に、しーんと静まり返った古池のイメージ(脳内自然)が思い浮かんだ。人間の脳に、「外的自然」 と 「脳内自然」 との共鳴が発生して、 「大いなる自然」(静まり返った古池のイメージ) が浮かび上がってきた、ということになります。
 松尾芭蕉は、この俳句で、「脳内自然」 の大いなる自然(神)を表現したかったのだと思います。言いかえれば、芭蕉は、日本人の自然の神の本質を表現したかったのかもしれません。

<<前ページ 1 2 3 4 5 6 7 次ページ>>