「自分とは何か?」 ある読者からの質問に答えて 3
ブッダと同じようなことを考えた人がいました。18世紀のドイツの哲学者イマヌエル・カントでした。
カントは、『純粋理性批判』 で、古来から議論されてきた、宇宙は無限か有限か、霊魂はあるのかないのか、死んだら自分はどうなるのか、などといった問いには、答のないことを証明しました。そして、そのような問いはどうでもいいことだというのです。そのうえでカントは、神が存在するかしないかということは、理論的には決定できないが、「よく生きる」 ためには神や魂の不死を信じることが必要だということも議論しています。大切なことは、存在するかしないかという問いを切り離して、「よく生きる」 ことだと言って、ブッダと似た考えに到達しています。
私は、25歳の時に海外へ出て、自分探しの旅を始めました。そして、5年間の放浪の旅から帰り、インドのカルカッタで急性肝炎に罹った病気を、日本で一年間治療した後、ロンドンへ行きました。それは、自分探しの旅が終わりを告げるときでもありました。
五年間の放浪の旅から帰り、独学でヨーガを始めた時、『ヨーガ・スートラ』(ヨーガ根本経典)に出会ったのです。初めてここに、自分の探し求めていた答があると直感しました。
その経典の最初に、[ヨーガの定義] があり、「ヨーガとは、心のはたらきを死滅することである」(一・二 佐保田鶴治訳)とあり、心の働きを止めると、本当の自分(真我)が現れ、その本当の自分は宇宙そのものであるというのです。
人間は、意識を持ってしまってから、自分を知りたいのです。理性(ロゴス)がそれを命じるので、答がないと分かっていても、自分を知りたいという欲求は消えないのです。人間の性なのかもしれません。おそらく1万年後でも、人間は自分を知りたいと思い続けるに違いありません。
それが、ヨーガを始めて、自分とは何か、が少しずつ分かり始めてきました。
たとえば、大海の白波が自分としたら、やがて白波は消えて、大海へ帰っていきます。自分と大海は、元々一体なのです。ヨーガを実践していくと、心の働きがなくなっていくときがあります。心の働きとは、言葉です。ロゴスです。ロゴスがなくなっていくと、白波が大海へ一体となる一体感を味わうことがあります。それは、レンマ的知性を味わうことと同じです。こうして自分とは、宇宙と一体で、その一部分であることを自覚しました。この時、私は、「自分とは何か?」 という呪縛から初めて解かれたと思いました。
このような理由で、私は既に 「答のない問い」 に関心を持つ必要がなくなりました。それよりも、人生をよりよく、より深く生きたいということに関心を持っています、というのが私の答です。
私が、様々な場所へ旅行したり、様々な本を読んだり、書いたりすることは、宇宙に関心を抱いているからです。宇宙という曼荼羅、つまり宇宙のタペストリーを理解したいということなのです。そして、その網目の一つが自分としたら、曼荼羅の断片の一片一片をはめ込んで宇宙の曼荼羅を完成させたいということです。